昭和七年の干ばつの際に斜里岳で雨ごいをして以後、水源地に社を移した。
斜里岳龍神の池に記載。
美幌神社 龍神社 から一時間ほど、清里町に着いた。天気はそこまで悪いわけではなかったが、斜里岳の上には雲がかかっていて楽しみにしていた斜里岳の頭を見ることはできない。
携帯のナビを頼りに斜里岳に向かって車を走らせる。遠出をするたびに実感するナビ、携帯の有難み。 これがない時代に自分はこうした調査をすることができただろうか。 山口弥一郎や宮本常一の本を読んでいると、地道に足でかせぎ、時間をかけてその土地を丹念に尋ね歩いていた。その行為に比べて自分のそれは安直で希薄なように感じることが少なくない。 そうは言えども飯は食えぬので、自分のできるなかで積み重ねてゆくより他ない。 希薄さも回数を重ねること、目を凝らすこと、継続することで何らかの形になることを願うしかない。
龍神橋を超えてさらに斜里岳登山口とある看板も見ながら山を登る。辺りが寂しくなってきたころ、「しゃり岳山荘」という文字が読めるコンクリートの古びた大きな煙突が見え、その足元に赤い屋根の社がある。 銀色に塗られた鳥居は最近塗りなおされたようだ。脇には由来が板に直接書かれている。 祠を保護のための屋根付きの囲いの中に設置された数々のものに目を見張った。
斜里岳の上で雨ごいに使ったという虫送りの虫のような藁で編まれた大きな蛇が天井をぐるっと取り囲んでいる。これを見られただけでもここに来たかいがあったと思った。 雨ごいのものは「山頂部の池にそれを沈めて」とあり、飾られているものは祠を建設した際なのか、別のタイミングに作ったことだけは間違いなさそうだ。 それでも北海道でこうした虫を見たのは初めてで興奮しながら眺めた。 そのほか龍神にまつわるものや昔の龍神神社と思われる写真、信者の名前などが、積雪でも埋もれないように天井の近くに所狭しと飾られている。 開拓民の強い想いの凝縮された場所といえるだろう。
鳥居のほうから下に降りる道が整備されている。 降りてみると、社の裏手には倒壊してから時間がたっている廃屋があった。 毛布などが見え隠れしている。 これがしゃり岳山荘の後なのだろうか。 厳しい冬の寒さを想像する。 そのさらに奥には小川が流れている。 大きな川の流れも気持ちを洗ってくれるものがあるが、笹を分けて流れているような幅1メートルほどの小さな川の流れは、小川のそばで育った自分にとっては実家にいるような安心感がある。 流れの中に魚影を無意識に探すのも小さいころからミミズで魚を釣っていた癖のようなものだろう。 あいにく魚影は確認できなかったが、この場所に社を建てたという意味を小川から感じ取れた気がした。
しばらく裏手を散策して満ち足りた気持ちになって斜里を目指した。 本日の龍神リサーチはここまで、斜里の友人Nさんに連絡して北のアルプ美術館を案内してもらえる幸運に恵まれた。 山崎館長の熱意によって作られたその館の、中身がぎっしりつまった展示内容は一度見ただけでは自分のキャパシティでは到底収まりきらないボリュームだった。 建物や庭の整然とおちつている雰囲気は自分の知性が5割ぐらい上昇するような気にさせられる。 知的好奇心、探求心、強い信頼関係によって構築されている別の時間軸で動いているような場所だった。斜里に行くことがあったら是非お立ち寄りいただくことをお勧めします。 最近は回数が減ってしまったが、自分も毎週のように山登りをしていたころを思い出した。札幌に帰ってきてから串田孫一の「山のパンセ」を再読したが、かつての山の風景が蘇り、串田孫一というお化けのような思考を持つ人のもつ魅力を再確認した。 山崎館長、風邪気味にも関わらずに自分のために時間を割いてくれたNさん、ありがとうございました。
その後、10数年ぶりにK君の実家に挨拶に顔を出す。 挨拶してその後移動するはずがすっかり翌朝までお世話になってしまう。 道東に来てから走りっぱなしだった疲れが吹っ飛んですっかり充電させてもらえた。 ありがとうございました。斜視岳にも上らなければならない場所。その時にまた顔を出せててもらいます。
翌日は阿寒湖のほうを経由して釧路に戻って帰宅する予定。あっという間の3日間。 翌朝7時過ぎから 屈斜路湖 龍の祠を目指した。 あいにくこの日も斜里岳は顔を見せてくれなかった。
(2019/5/30)
斜里岳に登山した前後で立ち寄った。斜里岳龍神の池 ついに念願の斜里岳に登れた。 (2021/8/20)