ntent="article" />
斜里岳龍神の池
斜里岳龍神社
所在地 清里町江南二〇七(現在発電機所の水源地)
祭神 斜里岳竜神
(中略)
由緒
昭和七年六月十一日から晴天がつづき、吉川農場は旱魃に悩まされていた。六月三十日、農民と農場側の総意で二二号の丘に神社を建立、竜神を奉斎した。大きな藁で作った蛇を担いで斜里岳を登り、竜神の池で大蛇を泳がせ、女たちはお供えを作るなど祈願の甲斐あってか下山の際に雨が降りだしたという。現在は発電所の水源地に祀られている。発電所は平成九年に廃止となる。
参考文献 「清里町史」
北海道神社庁誌編纂委員会「北海道神社庁史」北海道神社庁 1999
龍神伝説
清里の開拓が本格化したのは明治の後半で、明治末から大正初期にかけて集落が形成され、1943(昭和18年)に斜里町・小清水町から上斜里町として分村、 1955年(昭和30)年、町制施行とともに清里村になりました。身一つで原生林に分け入り、田畑を切り開いた開拓者の土地であり、開拓の苦労が生々しく語り継がれています。 1932(昭和7)年は、雨の降らない年でした。始まったばかりの農業が、干ばつによって台無しになってしまったことを恐れた農民たちは、大きな藁の大蛇を作り、夜をかけて斜里岳に登り、山頂部の池にそれを沈めて、祈ったところ、たちまち雨が降り始め、農民たちは救われたといいます。それ以来、農民たちが大蛇を沈めた沼は竜神の池と呼ばれ、麓に龍神神社が建てられました。
斜里岳登山ガイド|実話・逸話・裏話
念願の斜里岳に登る。数年前に登頂の予定を組んでいたが大型の台風に阻まれていた。 1500メートルを超えていて、北海道の山の中では高い方。自分の興味は登山よりも断然山中にある沼であったが、未踏の山を登ること自体はやっぱり不安も入り混じりながらもワクワクする。
帰省のタイミングと重なった斜里岳が故郷の山であるK君と一緒に朝の5時半から登り始めた。 早めにスタートで予定を組んでいたが、100名山にも数えられる有名な山で、多くの登山客に囲まれながらの出発となった。 本州からの登山客が目についた。
ガイドなどに記載されていた「沢登りのような登山」という表現は誇張ではなく、本当にその通りだった。 たかを括って臨んだが、旧道と呼ばれる沢沿いの登山道は3分の2が沢沿いのルートで、 何度もなんども徒渉を繰り返した。途中、飛び乗った岩から足を滑らせてしまい、登山靴が濡れてしまったのは我ながら残念。
いつもの登山に比べると控えめのペースだったので体力的には問題なかったが、 とにかく沢沿いをへつったりしながらのルートだったので、登山靴よりもトレランシューズで来るべきだったと後悔した。 トレランシューズで、濡れることを前提とした登山だと、ジャブジャブしながら、滑ったりする懸念も若干少なく登れたと思う。 とはいえ、登山靴でもグリップは十分で楽しい登山だったことは間違いない。なにしろ山の懐が深かった。
無事登頂を終えて、新道と呼ばれる熊見峠までの稜線ぞいのルートの途中に竜神沼へのアプローチはあった。 森の中に突然現れるその姿は神秘的で、そこだけぽかんと抜けた空間になっていて、眺望良く、清里の町が眼下に広がった。 沼は苔に囲まれており、透明度の高い水に満たされていた。 沼の淵の方から水がこんこんと湧き出しているのがわかる。 ちょっと硫黄の匂いがする。 指先を水につけて舐めてみても、かすかな硫黄の香りが印象的だった。
目的地に無事辿り着き、喜びもひとしお、撮影にも力が入った。 今後また来ることができるかどうかわからない。余すことなく沼を眺め、しばしそこで時を過ごした。 ここに沈められた藁で作られた人形は当然跡形もなかったが、なぜここを選び、竜神沼と名付けられたのかは納得できる気がした。 それほどの充実した景色が広がっていた。 ちょっと尿意をもよおしたものの、以前稚内の竜神沼で放尿をした途端にみぞれが降った経験を思い起こし踏みとどまった。
登山の前後で麓の龍神神社にも立ち寄った。 祠を囲む建物の内部の天井付近に吊るされた藁で作られた虫に見守られながら斜里岳を想った。 斜里岳は青森の岩木山にも似て、凛々しい佇まいが見る人を魅了する山だ。 山頂付近には斜里神社の祠もあり、民間信仰の依代として人々に愛されていることを経験できた。 このありがたい経験の微かな記録がフィルム上でどのように刻まれているのか、楽しみだ。
2021/8/19