イワケシ山の雨乞い
イワケシ山の雨ごい
昭和5年は、天候にも恵まれ水稲、豆類の大豊作の年でありました。ところが次の6年は、うって変わった冷害凶作の年となり、水稲は収穫皆無、蒔つけ以降、好天続きで一時は豊作も期待されたが、その後、雨らしい雨は降ることなく、やがて頼みの入梅も空梅雨に終り、農家一同はひとしく干天に慈雨のくることを心から念ずる毎日を迎えるようになりました。
農作物は、極度の水不足のため青色を失い、まさに枯死寸前の様相を示すありさまで、やがて誰がいうともなく、イワケシ山へ登って雨ごいをしてはということになりました。この声は各集落に高まり、住民の衆議もまとまって、上川沿、下川沿、西川沿の三集落から幾人かずつ別編成のうえ、毎日交替でイワケシ山へ登って雨乞いの儀式をおこなったのでした。
やがて7月1日となり、その日は例年の川沿小学校の運動会の日でそれも無事盛大に終了しました。閉会式の挨拶、で清水友市校長は、「運動会も終了しました。願わくば、この後雨がほしいものです。」の言葉を最後に添えたのでした。この挨拶と願いが天に通じたのかどうか知るよしもないのですが、7月2日の朝から降り出した雨は、毎日のように止むのを忘れたかのように続きたといいます。とかく世の中はままならぬものといいますが、その後は雨天、曇天の毎日でついに前年に継ぐ凶作の年になりました。これ以降、例年どんな干天が続いても住民の中から雨ごいの話は出てこなくなったそうです。[「イワケシュ郷土史」より]
常呂町郷土研究同好会 編「常呂町郷土史話」1990 北海道出版企画センター pp.24, 25