虫の知らせ

#134 / 室蘭市崎守 龍王神

諸神を祀る崎守にある龍神の社

住所
室蘭市崎守町
緯度、経度
42.370252, 140.928701
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来

室蘭という名は、モ、ルエラニというアイヌ語の地名からきたものという。これは今の室蘭ではなく対岸の元室蘭(ポロシレト崎、現在の崎守町)の地名であったものだが、開拓使がおかれた当時付近ではこの地がいちばんひらけていた。明治二年(一八六九)に郡名となり、今の室蘭に町が移ってからもその名をとったものである。 モ、ルエラニとは「穏やかな下り坂」というほどの意味であるが、室蘭岳の斜面が平地をつくらず、そのまま海に没する辺りの地形を指したものであろうか。崎守もアイヌ語の「小さな下り路」というほどの意味をもち、道南の森、函館、日高方面への海路上の中継点があり、そのうえ外敵に対する重要な守備地帯であった。というこの方が民俗収集に欠かせない大切な要素となる。 それに崎守、サキモリという地域と地形とが、上代から平安の初期まで、主として九州北岸、壱岐、対馬の西海辺境の防備に諸国から送られた守備兵の社会的、生活的な背景が時代の差異こそあれ、崎守の町が北方辺境の防人(サキモリ)の小軍団の集落であったことは明らかである。


(中略)


神社はもと稲荷社とよばれたもので、創始の年代は不明であるが、流造りの入念な作りのもので、随所に目をみはるばかりの精巧な職人芸におどろくのである。

南部藩の記録によると、嘉永五年(一八五二)に改築されて広さ五坪、「大黒蛭子」をまつるとある。また開拓史の書類によると、「琴平神、龍神」を合祀するという。正に神々がつどうやしろであった。いうまでもなく一氏族の守護神ではなく、崎守地方の神々、産土の諸神たちであった。


(中略)


神社の御神像は彩色された一尺七寸余の木彫のものであった。彩色といっても明らかなのは、白、赤、青、黒色であって横たわる白狐の上に、白髯を貯え左手に稲穂を肩にし、右手に巻物(または錫杖)を持つものである。一本の樹木で彫り上げられたものではなく、左側の肩の辺りから下部にいたる部分は別の材質のものでつぎ足している。素人の作ったものではないことは一見してわかるし、神顔は心なしか温かく微笑をうかべている。 白狐を組合わせた御神像はそのまた庶民信仰につながるものであって、土の臭いが全身をおしつつんでいるのも、神とはいえない大変に親しみがもてるものであった。また一世紀も前の造形とも思われない写実的な稲荷神というべきであろう。


(中略)


室蘭の近くサキモリの地は神々が乱舞する座であった。大黒天もまつられてあった。調査したものは拝殿(本殿)の中に安置されたものではなく、大地の上に置かれていた一尺五寸余のものと、一尺二寸余の石造りの二対であって、二体とも風化がひどく、一体などは二ヶ所も虫の穴さえみられるのである。


(中略)


先にもふれたように開拓史の記録によるとこの地域にはこのほか二神が祭祀されている。

その一つは龍神であり、もう一神が琴平神であった。ここにも農耕がくらしの基礎となり、水の徳を仰ぐ日本民族が、はしなくも顔を出すのである。

雨が、雨水が、水がくらしにどのくらい深いかかわりを持っていたか、今も昔も変わらないが、昔の暮らしには大変なことのようである。田畠の稔りは水と日照であった。それゆえにこそ雨を乞うさまざまな方法があった。 龍神が棲んでいる滝へ大石を転がしたり、滝つぼや池をかき回したり、寺院の吊鐘を滝つぼに投げ入れて、水神を怒らせるという手段や、お宮に参籠しても、その効果のないときには、御幣を持出して水浸しにすれば雨が降るといって、御幣が流れるまで水をかける方法、また河を干して魚を苦しめると眷族を助けるために、龍神が雨を降らせる方法など、庶民は考えに考えたのである。 いうなれば、こうした俗信は郷民が雨を得ようと、心を合わせて協力するところに意義があったと思われるのだ。往時の風俗の一種でもあった。多くの里人たちが一緒に行動し、切望すれば、神も心を動かされて、お陰をこうむることが出来ると信じていたのである。古い共同祈願の形が、ここに水神の碑をつくらせたのであった。 むろん雨乞も臨時の祭りである。崎守の神々の座の氏子たちは水神に願い、どのような雨乞の行事をしたのか、記録されたものはないが、雨水を、井戸水をもとめる農耕住民の声は静かなうなりとなって踊り舞ったのではあるまいか。

小寺平吉「北海道の民間信仰」 1972 明玄書房
参考資料・情報など
北海道の民間信仰
小寺平吉「北海道の民間信仰」 1972 明玄書房
現地確認状況
未確認
その他
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更新履歴
2016/12/02 記載
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