祭神、大竜王神。蛇の供養のため建立という。
蛇神社(元水車通沿)創祀不明。祭神、大竜王神。蛇の供養のため建立という。別称難得神社。
札幌市教育委員会文化資料室編「札幌文庫 札幌の寺社」1986 札幌市
蛇神社(難得神社)
昔の蛇神社のうらは、大木がしげり、水車川の水が青々として、なにかにひきずりこまれるような感じでした。
蛇神社については、あまり知る人はありませんが、「大龍王神」をおまつりしてあります。
この神社付近の河原や、やぶに、マムシ、カラスヘビなどがおり、カラスヘビは、飛びながら人を追いかけてくるので、おそろしいヘビといわれていました。
この神社は、水車川の水路をなおすときにこのやぶに火をつけて、やきはらった時に、たくさんのヘビが焼かれていたので、ヘビのくようのために、神社ができたと、いわれています。いまでも神社前の灯篭には、中西得郎さんの名前が入っています。
夜話(蛇神社にかかわること)
ある日草を食べていた牛が、突然おどろいたので、牧夫がみると、頭と尾は藪の中でみえないが、大蛇の胴だけが、川の上にかかっていて、それが赤く光っていたといわれていました。また、ある時大蛇が畑の中をとおったあとがあるというので、みんな畑にいってみると、腰崎さんの畑やら、松本さんの家のまわりや高橋さんの鶏小屋を、ひとまわりしたあとがあり、幅が五、六センチメートル位の広さで、ところどころに、なにかひっかいた様になっていました
蛇神社の由来については、全く不明ですが、たしかに、この神社のあたりには、蛇がたくさんいました。家を建てる時に無数の蛇の死がいをみました。
神社あたり一帯は、雑木林や、藪があり、蛇のすみやすい場所であったと考えられます。また、蛇は商売の神様だったので、この神社をたてたのではないかともいわれています。
枝元 政雄編「郷土史豊平地区の一四〇年 1857~1997」豊平地区郷土史発行委員会 1997
②難得神社(俗称・蛇神社)
・鎮座地 水車町5丁目
・創設 一八九八・明治30年(一説には大正初期とも)
・祭神 大竜神
神社創立前の周辺はマムシ・青大将等の蛇が多く、水車業者創業等のとき蛇生息地を焼き払った。その供養の意味と水車業発展・豊平川防災の願いから難得神社を建立した。このため俗称「蛇神社」とも呼称されたと伝えられている。
難得神社の景観
社殿の大きさを計測してみた。間口奥行とも5.5メートル、床の高さは、地面から約60糧、敷地は緑石など境界線を頼りにするものが見当たらず、概ねのところ正面幅23メートル、奥行30メートル、また鳥居と社殿の距離が12メートルあった。鳥居と灯籠は軟石造りであった。札幌石山の影響である。鳥居の建造が昭和26年11月8日に坂東又吉という方が寄附している。高さ約4メートル「難得」という社名がある。この鳥居の社名によって蛇神社が俗称であることが判る。
社殿に向かって左右に高さ約3メートルの灯籠が昭和27年4月近藤昇、武田美範の両人の寄附となっている。
左の灯籠は、坂東又吉外36名の寄附によって建立されている。先の坂東氏の鳥居の寄附と、灯籠の筆頭寄付者としての地位から推測して該神社の信者代表格なのであろうか。
昭和27年といえば、朝鮮動乱の2年後、敗戦日本が朝鮮戦争の余波でやや経済特需の兆しがある時代、国民の間に、少しはゆとりが見られる期と同じくし敗戦で荒廃した神社復興に呼応するかの如き、鳥居、灯籠の寄附、蛇神社も例外ではなかったのである。
神社は、今は信者も二世の時代と移り来て、さびれ、荒れ果てた感がする。屋根の色と社殿の扉に架けたナンバー錠の新しき光と対照的に暗い。敷地に大きな「いちょう」の樹がある。樹の周りが約3メートルもある。
灯籠の下にころがるような感じで置かれた軟石の手洗鉢が泥にまみれ、それを象徴しているかのように思えてならない。
水車町、今はその水車町もなく、水にも用がなくなったのか、さびれ果てる難得神社。龍神を祭神としていいることさえ忘れられてゆく、街の発展と共に消え去ってゆく運命なのか、難得神社。
難得神社創設期など
開拓史時代は豊平川の枝川を利用した官営の製材所があったが、水車を始めたのは明治30年(一八九七)代で、大正12~13年(一九二三~四)に電動化によって廃止するまで、おおよそ40年にわたって動いていた。当時、水車はこの地域に七ヵ所あって、いずれも「鹿児島水車」というように「誰々の水車」という名前を頭に呼び合ったという。水車は当時、重要な役割を担っていたので、精米や製粉に近隣(平岸・美園)の農家の人たちが、馬車に積んで賃づきにきたものであるという。
龍神は、農耕をくらしの基礎とする日本民族の頼りにする神であり、水神である。水車の人々がいち早く神社を創建する気持ちが分かるのである。
田畑の稔りはでき、不できの如何は水と日照りであった。それゆえにこそ雨を乞うさまざまな方法があった。特に龍神を祀ることは、多くの里人が一緒に行動し切望すれば神も心も動かされて、お陰をこうむることが出来ると信じているのである。この様な古い共同祈願の形が、ここに難得神社を作らせたものと思う。
おわりに
開拓農民にとっては、蛇との闘いと言っても過言ではない。蛇はどこにでも住んでいて、熊や狼のように、人間が住み始めると自ら縄張りを空け渡すようなことはせず、自分の居住区を死守する。今でも新興住宅でもよく蛇が現れる。奇妙なことにアイヌ人は蛇を恐れるという。熊と対決しても恐れないアイヌも蛇にだけはかなわない。蛇は強い神という。西洋でも蛇神がもっとも恐ろしい神といわれている。
難得神社も蛇神社と称されている。開拓当時の光景がダブってくるが、蛇との闘いもこれで想像できるのである。
私は調査の日時を重ねる毎に、社殿や周囲の荒れた様が、なぜか気になって仕方がない。とりわけ、該神社の樹木「けやき」の天空に伸びきった姿を見ると、開拓先人が古里を偲びながらこの木の生長を願っていたのであろう。郷愁というのには余りにも生々しいものの気配さえ感じる。
生活のため、この水車町に居を移し、厳しい北国の環境の中で、水車の廻る音に励まされ、正しく身を粉にして働いたであろう。私は、この社殿を拝しながら、苦しい時の神だのみだっただけでなく、天界に陽の出る時も没する時も、この難得神社に向かって遥拝したであろう先人の心を改めて感じたのである。
今や急激な都市化の進む中で開拓先人の偉業もしだいに風化する。然しながら水車町という地名を残した素晴らしい知恵を、再びこの神社復興に何らかの形で役立ててもらいたいと切に願うものである。
(注)難得神社の景観及び創建時期の項は、平成2・5・15
(一九九〇)恵庭在住の喜井陽心氏の手記より引用。
枝元 政雄編「郷土史豊平地区の一四〇年 1857~1997」豊平地区郷土史発行委員会 1997