乙部町の大蛸と大蛇
四十七話 鮪の岬の蛸と大蛇
乙部町字潮見地区に、海岸深く突き出ている岩がある。名をしびの岬といっている。この丘の岩肌は鮪のうろこのように幾重にも幾重にも岩が重なっていることから名づけたもので、この付近一帯楓林で、現在ではしびの岬として春には桜の花が咲き乱れ、展望台より眺める日本海の風景、また豊富な魚の磯釣りなど乙部町のいこいの場でもある。
檜山道立自然公園の一つであり、道南八景の一つでもある。静かなたたずまいの中でここを訪れることはきっと感嘆することでしょう。また、豊浜区住民が祀っている諏訪様の社殿も一段と目立ってそびえている。ここはそのむかし、鰊の本場といわれにぎやかな光景をなしたものである。約二百年前の鰊豊漁時代のこと、大蛸と大蛇の闘争物語がこの鮪の岬にある。
「このしびの岬に大蛸が棲息していた。その棲んでいた穴は水面よりおよそ十二.三尋(約二十メートル)の海底で奥深い柵のようになっているといわれているが、誰も穴の中の様子については知らなかった。
またこの海面より約三十メートルほど上の岸壁に、畑地のようなくぼみをなしている平岩(別名畑岩)に一本木と呼ばれている一本の大きな楓の木が生えて、枝ぶりが面白く海面になびいている。
またしびの岬から約一キロメートルほど山手の一丘陵にヂモリ山(通称、ジングリ山)というところに、大蛇が棲んでいた。
ある晴れた日、かの一本木に大蛸が二本の足をまきつけて日向ぼっこをしているのをヂモリ山の大蛇がみつけ大蛸に近づき
『蛸のくせに陸に上がって昼寝をするとは何事だ。けしからん』
ということで直ちに戦いを挑んだのである。人々は門口に出て見物していたが、薄気味が悪くなり、その闘争はまったくすさまじい有様であったという。
はじめ蛸は二本の足で相手をしていたが、形勢が悪くなると思い、さらに二本の足を増加したが勝敗は容易に決しなかった。
蛸はさらに危険と思い足をまたふやした。大蛇は尾を一本木にまきつけ、猛烈に蛸の足に絡みついた。事が容易でないと蛸は特異の黒液を吹き散らして姿をかくしては闘い、ついに大蛇を征服してしまった。」
その後、明治時代に入ってからある猟師が毎年五・六月ごろ、付近でホッキ貝を採集していると、かの大蛸が怒って暴れ出し、大波を捲きおこすので漁民たちの恐怖の一つとなっていた。又、この大蛸は江差の鴎島に嫁に行ったといい伝えられている。そしてそのころから鰊漁が少なくなったということである。鮪の岬の蛸の棲んでいた大穴は現在海草などで埋まっていて、大波の時にはその周辺一帯の海面が濁るといわれている。
有名な一本木は明治三十八年(一九〇五)九月二十三日の大烈風(北風のことでこの辺ではシモカゼという)のため吹き折られ、根元より約六十センチほど残して他は海中に落ちてしまったが、その巨木は行方不明になりこれまた漁夫たちの不思議の一つとされている。(ただし残った根元は今尚現存しているというが確証していない。)
またしびの岬に棲息していた大蛸の移動については、別の説として、大蛸は江差町五厘沢温泉近くの大沼に嫁ぎ、今でも蛸穴といわれる空洞が現存している。
葉梨孝幸「おとべ百話 民話・伝説・史話」1999 乙部町史研究室
五十二話 大蛸と釣鐘
昔、江差のどこの寺にも釣鐘がなかった。そこである年のこと、街の人たちが集まって相談し町で一番高いところに建つ正覚院に釣鐘を寄進することになった。注文の釣鐘ができあがり、大坂から北前船に積んで運んできた。ところがいざ入港の準備を始めた鴎島の近くにやって来たところ、急に海中からごぼごぼという音が聞こえ、やがて海水が小山のように盛りあがり船が今にも転覆しそうになった。
船頭がびっくりして海面を眺めていると、恐ろしく大きな蛸が現れ、だんだん船の上にのぼってくるのだった。驚きのあまり、みんな声もなく棒のように突っ立ったまま固くなっているうちに、蛸は積んでいた釣鐘に足をかけ、ずるずる引っぱり出して遂に折角苦心して進んできた釣鐘を海底に持ち去られてしまった。
一方正覚院では和尚をはじめ人々が集まって待っていたのだが、いつまで経っても到着しない。心配して出たり入ったりしていると、蛸に釣鐘を奪われたという報らせが飛びこんだ。町中ひっくり返るような騒ぎになった。
人々は何故蛸が釣鐘を奪ったのか、人望ある神官を呼んで議論することになった。神官を乗せた船が沖に出て蛸の現れた場所についた。神官は早速御祈祷をあげると、頭の径が四尺もあろうと思われる大蛸が異様な音を立てながら顔を出した。
「万物の霊長たる人間のものをかすめて何とする気じゃ、その訳を聞こう」
と問いつめる神官に、蛸は口をとがらせながら答えた。
「はい、私はこの北の鮪の岬(乙部町)に長く住んでいた雌蛸ですが、ついこの間岬の上に住む大蛇と大喧嘩をして勝ったほうびとしてこの鴎島に嫁にきたものですが、新参者なので頭の帽子を何処へかくしたらよいかわからないで思案しているところへ、釣鐘を積んだ船が通ったので、これ幸い、この鐘に帽子を入れていくとほかの魚に盗まれる恐れがないと思い、つい取ってしまったわけです。ハイ」
神官はもし無理して鐘を取り返して大蛸を怒らせては後の祟りが恐ろしいと気がついたので、一緒に乗りこんでいた人々と相談してそのまま釣鐘をくれてやることにした。大蛸はこのことに感謝したのかどうか、その翌年から鴎島周辺では大変な蛸の豊漁が続いたそうである。
この大蛸は鴎島の主として君臨し、いまでも釣鐘をかぶったまま、鴎島を七巻き半も巻くことがあり、海上が凪いでいる日には釣鐘の竜頭が見えるなど伝えられている。
昭和三年二月、乙部のすけとう漁船、普洋丸とあさひ丸が冬の嵐に逢って田沢沖で遭難し、何とか江差の港に入港しようとしたが果たさず、難破して十五名が溺死するという大きな海難事故が発生した。
遺体収容のため、函館から潜水夫があわてて揚がってきたかと思うと船上でがたがた震え、仕事を仕切って帰ると言い張る事件があった。わけを聞き出したところ、見たことも聞いたこともない、とてつもない大蛸が居るという。吸盤の一つが三平皿ぐらいの大きさもあるすごさで、当時の金にして何万円積までても潜る気がしないといって仕切りにしたことがあったという話を語ってくれた古老がいる。
なお、鴎島に嫁にきた鮪の岬の蛸は、一説によればその嫁入り先が鴎島ではなく五厘沢温泉近くにある「蛸穴」だったという話も残っている。鮪の岬にも、鴎島にも相当大物の蛸が居たということだろう。
江差民話研究会編「江差百話 江差の民話・伝説・史話」1993 江差民話研究会