#061 / 赤沼の赤沼大明神

赤沼にすむ龍神の信仰

住所
函館市亀田中野町438 [渡島東部管理区120林班] 函館市亀田大森町1-1 [渡島東部管理区119林班]
緯度、経度
41.886740, 140.789157
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来

函館郊外の赤川の奥にある赤沼は、赤沼大明神として独自の信仰を集め、これは赤土による赤沼の赤色信仰と思われるが、ここにも竜神がいると信じられている。そして地方での竜神信仰はたいてい蛇である。(赤沼には何病にでもきくといわれ、眼病のものは沼水で眼を洗うと治るとされ、また諸種の願望も水上におさんご<米とお金を白紙に包んだもの>を投げ、それがすぐ沈むと願成就とされ、浮いて沈まないときは神の拒否と信じられてる。また雨乞いに来る人も多い)

須藤隆仙「北海道の伝記」1971 山音文学会
由来2

龍神様

関西方面から来た尼さんが、「函館の北にある赤沼に行ってお祈りしなさい」という夢を見、 赤沼まではるばるやってきた。すると、沼から龍神様が現れたので、付近の村人と祠を作った。 それ以来豊作が続いたという。

この祠で一晩を明かすと、龍の化身の女性が現れるという。

悲恋の涙

三百年ほど前、行き倒れになった母子が、赤川の大地主の由右衛門に助けられた。 やがて娘は18になり、地主の息子弥七と恋仲になる。しかし弥七には親の定めた許嫁がおり、娘は弥七との恋をあきらめなければならず、山に入り、何日も何日も泣いた。 その涙は沼をつくるほどになり、娘はその沼に身を投じたという。以来、この沼は涸れることはなくなった。

雨乞い

田植えの水不足の際、雨乞いをすると必ず雨が降るという。

オサンゴ

この沼にオサンゴ(米とお金を白紙に包んだもの)を投げ入れて沈むと願いが叶うという。

また、眼病の者は沼の水で洗うとたちまち治る。

大蛇

明治34年、石川町の豆腐屋のおかみが、真夜中にふと目を覚ますと枕元に異形のものがいた。

びっくりして飛び起きると、その異形のものがいうには、「私は赤川の山奥にある赤沼の主で、古い大蛇である。 雨を祈りの神として人々が敬ってくれている。数千年ここに住んでいるが、今は孫、ひ孫、玄孫と一族が増えてしまい、この池が狭くて住み辛い。 そこで、ここの家の庭に池を作って社を建ててほしい。もし建ててくれたら一族の繁栄を約束したい。」

はっと気づくともう異形は消えていて、夢だったような気もする。

そのままにしているうちに、夜な夜な赤沼から流れている川の流れ尻に、狐火のようなものが現れるようになったので、大蛇の言うとおりに庭に池を作り祠も建てたという。

遊ぶべ!道南探検隊 >赤沼:函館市
由来3
北海道庁編「北海道の口碑伝説」1940 日本教育出版社
由来4

赤沼の竜神さま

むかしむかし、一人の若い尼さんが、ふらふらになりながら、この赤川村をたずねてきたんだと。そして、

「このあたりに、赤い水の色をした沼がないでしょうか?」

と言うんだと。

聞かれたおかみさんはびっくりしてしまってのう、

「あんれまあ、そんなら、赤沼のことだべさ。この後ろの山さ登っていけば、その赤い水の沼があるけんどさ……。いったいおまえさんはどこから来なさったのかね?どうしてまた、あったら山おくの赤沼ばなんて知ってなさるのかねえ。」

と聞いたと。すると尼さんはとたんに、

「あーあ、ありがたやありがたや、赤沼はやっぱりここでしたか。」

と言って、そこへぺたりとすわってしまったと。

おかみさんはびっくりして、尼さんを自分の家さ連れていって休ましてやったんだと。

この尼さんは上方(大阪・京都方面)の人でな、わけがあって信仰の世界に入ったんだと。

そして願かけばして、その満願の日に、

「えぞ地の函館の北の方に、赤沼という沼がある。そこへ行って祈願をこめよ。」って、夢のおつげがあったんだと。

それを聞いたおかみさんはもうびっくりの三度めでな、

「はいはい、たしかにあの沼は不思議な沼でしてのう、沼の主は、竜だというものもおれば、大蛇だというものもおるんですわ。うちの死んだじっさまが見たのは、竜だということでしたがな。うちのじっさまは若いころから何やら病気もちでしてな、えらく苦しんだ人でしたわ。目をわずらってからは、何やら信仰ばしているようでしたけれども、それが、だんだん見えんようになって、それでの、じつは、あの沼で死のうと思ったんだと。そして、わしにだまって、その沼へ出かけていったら、冷たい風が、ザワーッと吹いてきて、何やらぞうっと寒気がしてきたんだと。そしたらな、ジャワジャワジャワジャワと水の音がして、あの沼の中から、すごいおそろしげな顔ばした竜があらわれたんだと。……しばらくたって、だれか、頭に水ばかけてくれているような気がして、ふと目を開いたんだと。でもな、だれもいなかったと。そして、不思議なことに、この日から、じっさまの目がよく見えるようになり、おかげさまで、死ぬまで元気で働いておりましたがな。じっさまは、赤沼の竜神さまのおかげだ、おかげだ、といって、手を合わせておりましたがな。」

おかみさんの話を聞いた尼さんは、またまた涙を流して喜んだと。

「あーありがたやありがたや。たしかにわたしが夢に見た赤沼にちがいありません。ありがたやありがたや。」

尼さんはおかみさんに礼をいうて、教えられた道を赤沼の方へ登っていったと。

間もなく沼に着いた尼さんはな、その水の色といい、あたりのようすといい、あまりにもおつげどおりなのにびっくりしたと。そして竜神さまにお会いしたいと、沼のはしにすわって、祈願をこめたと。

やがて月も落ちたころにな、シャブシャブシャブシャブと沼の水がゆれだして、さざなみがたってな、それといっしょに、ゴロゴロゴロゴロと、まるで遠くでなるかみなりの音みたいな音が、沼の中から聞こえてきたんだと。して、その音が、だんだんだんだん近くなったと思ったら、沼の水がぱっと二つにわれてな、尼さんの目

の前に、ものすごくおそろしげな顔をした大きな竜が、ぐいーっと、あらわれたんだと。あまりのおそろしさに、尼さんは思わず後ろにひっくり返ったと。尼さんはひっくりながらもいったと。

「あーありがたい。やっぱり竜神さまでございましたか。ありがとうございます。ありがとうございます。でも竜神さま、そのお姿では、あまりにおそろしゅうございます。できますれば、今一度、もうちょっと、おやさしいお姿でお目にかからせていただけませんでしょうか。もう一度、もう一度、お会いしとうございます。お願いいたします。お願いいたします……。」

尼さんはまた一心に祈ったと。

竜神さまは、この尼さんのいっしょうけんめいな心に打たれたのか、今度は、ピシャパシャピシャパシャと、やさしく水を打つ音がして、ふたたび沼の水がわれてな、そこからまあ、こんどは、美しゅうて、こうごうしゅうて、おやさしい姿のお姫さまがあらわれたんだと。

尼さんはどんなにうれしかったことかーー。

それからはな、病気で困った人たちが、この沼をたずねてくるようになったんだがな、不思議なことに、その人たちの投げたオサンゴー、「オサンゴ」ってのはな、白い紙に、米やお金をつつんでひねったものなんだども、このオサンゴを沼に投げ入れるとな、すぐにすうっとしずんで見えなくなるものと、ういたまんま、なかなかしずまんものとあるんでの。そこで、すうっと気持ちよくしずんだもんは、竜神さまが、その願いを聞きとどけてくれた、というてな、みなさんよろこびなさるんだとぉ。

文・坪谷 京子

読みがたり 北海道のむかし話
由来5

赤沼大明神 亀田中野町

桔梗駅(ききょう)から東方約11キロー亀田川上流の赤沼山赤沼に明神祠がある。

明治42年(1909)5月17日、桔梗村民有志が創建し、再築などを経て現在にいたっている。ご神体は竜神とされている。

龍神は雨族や水族を司る神として信仰され、干ばつの時には多くの農民が参詣、雨乞いを下。例祭日は旧暦の4月7日。

赤沼の淡水は清澄で酸性に富む。赤沼への参詣は亀田中野の日蓮宗妙要寺で大々的に行っている。その行事は「丑満参り」というもので毎年7月6日の22時頃、老若男女150-170人が、住職の先導のもとに列を組み登山し、翌2時、つまり丑満に沼に到着し詣る。

妙要寺から赤沼まで約6キロであるが、5キロ地点の山手に鳥居があり扁額「赤城山地主八大龍神」の祠がある。<注>


日蓮宗妙要寺の「丑満参り」同行期

かねてから、一度は見学傍お参りしたいと思っていた。ちょうど、天気に恵まれた日=7月6日ついにその機会を得た。丑満参りとは、同寺より約6キロの山奥赤沼山の主ー龍神に午後2時お参りをし、”願かけ”することである。

この詣りの事は、昭和52年5月道新発行の『北海道ー祭の旅』合田一道著に紹介されているが、私の箱館在住観なりに同行したわけである。

先ず妙要寺の縁起の概要は、


”大正9年5月に大阪北区に道場をもつ大道妙要法尼が、身延山に参拝すべく汽車に乗り、隣の客の函館話から、急に何の気もなく函館に来り、一泊し市中の人の行かざる山なきやと尋ねたところ、赤川上流に人も恐るる魔の沼ありきと聞き、そここそ修行の場所なりと、農夫斎藤老人を頼み馬を引き赤沼までいった。

その途中、大雨やら、不思議なことがあった。その後、大阪の信者8人が来函し、無理やり連れかえる。しかし、心落ち着かず、また、函館に来り、赤沼山に入り、沼の端に草小屋を建てて21日間荒行す。

またも大阪より信者来箱し連れ帰った。その大阪時姿あたかも大蛇の如き大天女現れ、妙要尼を見込んで幾度となく、呼び寄せしものなり、若し疑いあらば赤沼山に来てみよ、その時、不思議を現さんと云々。また赤沼山麓に寺を建てよ。ここに住み護りとならん云々と、妙要寺と信者に夢の告げがあったと。そこで大阪信者ともども来函、赤沼山にいったところ不思議(略す)なことがあったという。

ついに大正12年滞道を決し五稜郭町に道場を開いた。その後の昭和9年、当山(寺の山号)を現在地に建立した。 ”


(以下同行記は長文のため省略)

編集 箱館の歴史的風土を守る会「はこだて史譚 -曾田金吾郷土史論集-」1994/3 有限会社 三和印刷
由来6

赤沼のいわれ

涙でたまってできた沼

函館



函館市亀田から赤川通りを十二キロほど行くと、中野ダムの先に赤沼という小さな沼がある。この沼は、赤沼本山妙要寺の霊沼と崇められており、信者の参詣が絶えない。

この沼に哀れな女性の物語が秘められている。「北方文明史話」から。

いまから三百五十年余り前というから寛永年間のころか、吹く風も身にしむ初冬の夕暮れ、赤川の大地主・吉右衛門の家近くにみすぼらしい母娘が一歩も歩けずうずくまっていた。先住者を頼って南部からはるばるやってきたのだが、訪ねるあてもなく、飢えと寒さにさいなまれ、ついに行き倒れたのだった。

母娘は地主の温情により助けられ、娘はおけいと名付けられて暖かい庇護のもとに成長し、早や十八の春を迎えた。

地主の息子・彌七とおけいの中にいつとはなしに恋が芽生えていった。しかし彌七には親の決めたふさ子という許嫁がおり、その婚儀の日が一日一日迫っていた。

思い詰めた彌七はある雨の夜、おけいの部屋へそっと忍び込み、自分の胸の内を語ろうとした。だが何ひとつ言葉にならなかった。恋し合うもの同士、蝋燭の灯に青白く照らされながら、ただ相手をじっと見つめるだけだった。

彌七が去って、おけいはこの恋をつらぬくか、命を救ってくれた恩人の地主に義理をたてて身をひくか、泣きながら迷い抜いた。ひと晩泣き明かしたおけいは地主への操を立てるべきだと決心したのである。

おけいはひとり山の中へ入って行った。そして思い切り泣いた。泣けるだけ何日も何日も泣き明かした。小さな涙の滴は集まって神秘な沼になっていった。

「さようなら、彌七さん。ありがとう、おとうさま、わたしは幸せでした」

そう言っておけいはその沼に身を投げて果てたのだった。

”涙の沼”の異名があり、明治初期からこの沼に祈ると雨が降るといわれ、雨乞いの沼ともいわれた。

沼は周囲三十メートルほどの小さいものだが、水はこんこんと湧き出し、水温は常に摂氏四度を保ち、枯れることはないという。哀しみの物語を溢れるばかりの涙に例えた伝説なのだろう。

涙の沼の奥の院とする赤沼山妙要寺のうしみつ詣りは毎年七月七日に催される。この夜、沼に棲む竜神が現れ、願いごとをかなえてくれるのだという。

前夜、本堂に集まった信者が山道を歩いて霊沼へ到着。丑満時の午前二時に霊沼へおさんごを投じて願いを賭けるのである。

真剣に祈りをかける信者の姿は神々にも似て美しい。不思議な幻想をたたえたうしみつ詣りに、ふとかつてこの沼に身を投げた一筋な娘の姿を思うのだった。

合田一道「北海道ふしぎふしぎ物語」
参考資料・情報など
北海道の伝記
須藤隆仙「北海道の伝記」1971 山音文学会
遊ぶべ!道南探検隊
赤沼:函館市
渡島総合振興局
渡島総合振興局 > 森林室 > 東部森林室 > 見どころコーナー 赤沼
黒ウサギ的こころ
赤沼②
北海道の口碑伝説
北海道庁編「北海道の口碑伝説」1940 日本教育出版社
英語喫茶~英語・英文法・英会話~
英語喫茶>北海道市町村別 景勝探訪と学習の息抜>森町・函館市ほか>函館市>赤沼:その1(赤沼までの道が詳細に記載されておりわかりやすいです)
読みがたり 北海道のむかし話
編著者 北海道むかし話研究会 北海道学校図書館協会「読みがたり 北海道のむかし話」2005 発行者 株式会社 日本標準 代表者 山田雅彦
箱館昔話(九号) 箱館・道南の歴史絵巻
坂口延幸「箱館昔話(九号) 箱館・道南の歴史絵巻」1997/4 有限会社 パルス企画
はこだて史譚 -曾田金吾郷土史論集-
編集 箱館の歴史的風土を守る会「はこだて史譚 -曾田金吾郷土史論集-」1994/3 有限会社 三和印刷
北海道 祭りの旅
合田 一道「北海道 祭りの旅」1977/5 北海道新聞社
合田一道「北海道ふしぎふしぎ物語」
合田一道「北海道ふしぎふしぎ物語」1982/3 玄洋社
現地確認状況
確認 2022/6/4
その他

参考資料追加「箱館昔話(九号)」追加。 兄弟の沼だという白沼についても詳細が記載してある(未転記)。 是非行きたいところだ(2020/7/30)。


 2022年6月初旬、9時過ぎに着くと、ダム公園の駐車場にはジムニーが何台も停まっており、運転手らが雑談をしていた。赤沼にも続く林道は、オフロードバイクやオフロードの車らに人気の場所らしい。山菜採りの人たちも数名見かけた。小樽の林道を思い出した。

 ダムから赤沼への道は思った以上に距離があった。徒歩で途中まで行ったものの残りの距離の長さに予定を変更し、無理せずいけるところまで自動車で行って、その後に徒歩で行くことにした。地形図のアプリとにらめっこしながら自分の位置を確かめつつ、赤沼を目指した。電波がなくてもGPSで場所が確認できるアプリにはこれまでも沢山助けられてきている。

 途中崩落があって赤沼へ続く林道は徒歩でしか先に進めなかった。地図上で「赤沼大明神」マップされた場所にたどり着いて、ようやくここが終着点かと思ったが、全く沼がある気配はない。周囲には、座布団や着物のような布、お供え物のお酒などのかつてそこに何かがあったような痕跡が僅かにあるのみ。そこが目的地ではないということもわかり、気を取り直して先を急ぐ。途中、熊の足跡が鮮明に道を横切り、周囲のフキが倒され、かじられている道が数メートルに渡って続いていた。遠くない過去に熊がここを通ったのに間違いがない。前日熊にあったばかりだったので、もうこれ以上は御免だと、鈴を鳴らし、声を張り上げ、携帯で流しているラジオの音量を最大にした。

 ようやく残り僅かの分岐道まで差し掛かった。だがそこからのルートが見つからなかった。正面突破すればなんとかなるかと意を決していったん沢までおりたらこれがひどい藪漕ぎだった。  根曲がり竹と笹薮と格闘にも疲れ、ちょっと無理かなと思うような気持ちにもなったが、なんとか最後は無理やりそこに行くことができた。良かった。笹を漕いだ時にでる白い粉のようなもので黒いズボンはグレーに染まっていた。  沼は斜里岳の上にある龍神の池に非常に似たポポポポと硫黄の匂いがするガスが上がってくる。透明度が高く、藻が繁殖している沼であった。沼から下に滝が流れ落ちていており、 先ほど藪を漕いでいる最中に滝が見えたその上が赤沼であった。大きな滝だった。コンコンと沼から水が湧き出しておりその量は非常に多い。

 息を整えながら美しく小ぶりな沼の周りを見回した。すぐ脇に潰れてしまった祠があり、 それの隣にある灯篭も破損していた。2メートルぐらいの鉄製の板が橋のようにかかっており、その橋を渡ってぐるっと反対側に行くと、鉄製の埃があった。中には何かの像が収められてるようであった。覗き込めば確認はできたが、いやらしい気持ちがして見えている姿で満足した。その祠は鉄とプラスチックでできていて、プラスチックの通気口がついていたので、比較的新しいものだと思われる。沼の話を聞いたことがある女性に沼に行ったことを報告したところ、昔ここには踏んではいけない板があったと教えてくれたが、それらしいものは目に付くところには無かった。  春ゼミの声と、水の音、木々が騒めく音に囲まれる。そこから動きたくなかったが、戻りの道のりも1時間ぐらいはあるので十分その場所を体感できたと感じてから、ゆっくりと撮影しながらその場をあとにした。数か所で音を収集した。


赤沼の総本山

 ダム公園の水道でどろどろに汚れた靴を綺麗した。今年の頭に購入したゴアテックスのトレッキングシューズは高性能で靴下はまったく濡れていない。今回の最終目的地であるダム公園からほど近い赤沼本山妙要寺に立ち寄った。ダム公園でも聞こえていた犬の吠え声は、そのお寺の敷地にいる犬の声だった。全部で3匹はいたようだが、どの犬も人に懐いておらず私が見ている間、ずっと警戒して吠え続けていた。撫でたいと思ったものの、吠え続ける犬の声を聞き続けているうちに気持ちも削がれ、早くこの場所から立ち去りたい気持ちをおさえながらの訪問になってしまった。

 隣接する住宅に蛍光灯がついているのが見えたが、お寺には人の気配はなかった。 本堂の中は、何と書くべきか、非常になんとも言えない、微妙なふんいきだった。「ご自由にご覧ください」と書いてあった立看板を頼りにして、中を少し見学させてもらった。誰もいないので帰ろうかと思ったら白い車が下から上がってくるのが見えた。会釈をして、女性にちょっと声をかけた。

 深夜に赤沼に信者でお参りするという丑満参りについて話を聞いた。5、6年前に最後9人で丑満参りをしたが、人が減ったので最近はやらなくなったという。 ずっとお経を唱えながら唱えながら歩いたという。最盛期には300人おり、その時は懐中電灯の明かりだけで明かりに困らず、最後尾はどこなのかわからないぐらいの長い列だったという。丑満参りは現地解散だったというが、常連さんばかりで問題なかったそうだ。ついさっきまで山の中を歩いた身としてはあの山の中で夜中に現地解散するのは勘弁してほしいと思った。

 話を聞いた女性の父が住職であったことを会話から読み取ることができた。他にもお寺は龍神信仰があることや、葬儀があったためバタバタとしていることを聞いた。お寺にあった灯篭と同じ灯篭が沼のほとりにあった。沼へ降りる道の脇にあったお地蔵さんがあった建物は、他の人が作った物であったという。他の霊場にも多くあることだが、そこが霊場として栄えると、他の霊能力者などが集まり、霊場として活用された名残ということだろう。お礼を述べてその場を後にした。あとから振り返ると話を聞きたいことはいくつもあったが、後の祭りだった。

2022/6/18


合田一道「北海道ふしぎふしぎ物語」よりかつての姿を移した写真を引用。 栄えていた頃の様子がわかる貴重な写真だ。写真の記録性がダイレクトに表れている。

2022/9/20

更新履歴
合田一道「北海道ふしぎふしぎ物語」1982/3 玄洋社より画像引用
2022/09/17 由来6追記
2022/06/15 備考追加、写真追加
2020/08/09 由来5追記
2020/07/30 参考資料追加「箱館昔話(九号)」
2018/09/05 由来4追記
2016/10/01 記載
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合田一道「北海道ふしぎふしぎ物語」1982/3 玄洋社
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