真駒内南町1丁目、真駒内川河川敷地の小祠内にある半人半龍の像
真駒内南町1丁目、真駒内川河川敷地の小祠内にある像。
明治12年(1879年)真駒内牧牛場に真駒内用水路を開削した当時、この辺は原始林におおわれ、真駒内川の蛇行点には大きな淵があり、蛇塚があったといわれる。 明治の後半、平岸、豊平、上白石、白石にも水田が普及、この用水を利用する農家が水利組合を結成。
この人々に竜神信仰があり、雨ごいの風習もあったという。大正4年(1915年)5月、蛇塚に竜神の碑と祠を建立し竜神塚として、春の水開きと秋の水落としに、例祭が行われていた。 その後、昭和47年(1972年)、駒岡の吉川沢美が買い取り自宅に移設、毎年6月に竜神祭りを行っていた。 平成2年(1990年)8月に、真駒内有志発起人の手でゆかりの地に戻し、祠を新しく建立。「真駒内竜神塚をお守りする会」が発足、9月に竜神祭りを復活した。
「札幌市南区」のWebサイトより抜粋
札幌市立豊園小学校 校歌
作詞:藤沢利祥 作曲:上元芳男
1. みはるかす石狩の野
拡がるごとく 豊園に
集える児らよ
学び鍛えて きり拓け
おのが行くてを
空沼の 水めぐり来て ささやき かくる (以下略)
※管理人注… 札幌市豊平区美園1条4丁目1-1 にある小学校。かねてより付近では空沼からの水源と認識していたことがわかる。
札幌市立豊園小学校
一.竜神塚
市バス滝野線の駒岡下区停留所で下車し、精進川のせせらぎに向かって坂道をくだると、吉川沢美さんの虹鱒養魚池がある。その敷地の一角に祠(ほこら)があり、竜神の石像が鎮座している。
この竜神さんは、以前は南町一丁目の用水取口近くにあったものを、昭和四十七年に吉川さんが貰いうけてここに移し、大切に管理している。
その縁(ゆかり)をたずねると、そもそもの始めは取水口近くにあった「蛇塚」がもと。この蛇塚の由来は、古くからあったというだけで、ようとしてわからない。明治十二年に牧牛場がこの疎水を開さくした当時、この辺りはうっそうたる原始林におおわれ、真駒内川の蛇行点にあたって大きな淵ができており、そのそばに蛇塚があったという。
明治の後半になって平岸、美園、白石方面に水田が普及して来、この水源を利用する農家十数戸で水利組合を結成し、種畜場の了解を得て用水を利用していた。この人々の間に淵の主(ぬし)としての竜神信仰があり、雨乞いの風習もあった。「大正の末ころだったと思います」と、今井スエさんは語る。「お天気が良いのに十五、六人のお百姓さん達がみのを着て笠をかぶり、鍬(くわ)をかついで行くのを見て、おばあさん、あれは何ですかと聞いたら、”竜神さんに雨乞いに行くんだよ”と話してくれました」
大正四年五月、蛇塚に竜神の碑と祠が建立され、じ来竜神塚として信仰をあつめ、根本家を中心に毎年春の水門びらきと秋の水落としの例祭が関係者によってとり行われていた。しかし時は移り、世相も変わって、吉川さんが発見したときは祠は傾き草むらに埋れ、野ざらしの有様だった。吉川さんに引き取られてからは毎年六月十日に竜神祭りが催され、札幌市内の水商売の人たちから広く信仰されている。
郷土史真駒内
竜神塚 りゅうじんつか 真駒内南町1丁目の真駒内河川敷地にある小祠内にある石像。明治12(1879)年、真駒内牧牛場で真駒内用水路を開削した当時、この辺は原始林におおわれ、真駒内川の蛇行点には大きな淵があり、蛇塚があったといわれる。明治の後半、平岸、豊平、上白石、白石にも水田が普及、この用水を利用する農家が水利組合を結成。この人々の間に竜神信仰があり、雨ごいの風習もあったという。大正4(1915)年5月、蛇塚に竜神の碑と祠を建立し竜神塚として春の水開きと秋の水落としに例祭が行われてきた。真駒内が宅地化されてきた昭和47(1972)年、駒岡の吉川沢美が野ざらしになっていたものを引き取り、自宅の紅鱒養魚池の一角に移設。毎年6月に竜神祭りを行っていた。平成2(1990)年8月に真駒内の有志発起人の手でゆかりの地に戻り、祠を新しく建立。「真駒内竜神塚をお守りする会」が発足、9月に竜神祭りを復活した。
参> 郷土史真駒内242-2p、南風3.2.1号
みなみ区ふるさと小百科
同年(※昭和五年)八月三十一日、勝見、石野、丸亀の各区長は組合事務所に参集し九月一日の総会準備、真駒内川水門に龍頭観音一體の勧請に付前田寺芳賀諦観師石工武力常太郎氏外第一組合員五名夫役として勤労す。
同年九月一日定時総会を開き左の事項を実施す。
一.真駒内川水門龍頭観音勧請に付組合代表として福島副組合長外四氏出張し芳賀諦観師となり開眼供養を為す。
※カッコは筆者
福嶋利雄「札幌市豊平外四箇村聯合用水組合沿革誌」1943 札幌市豊平外四箇村聯合用水組合 pp. 49,50
同年(※昭和六年)十月十二日豊平町平岸真駒内用水大水門龍頭観音白龍大権現祭禮は発起人真駒内在住人根本サト外拾壱名並に前田山住職より報告あり。同日札幌大和講の連中の打揃っての参拝龍神御賽前の祈祷終わって御詠歌あり、尚現場に於いて余興ありたり。
※カッコは筆者
福嶋利雄「札幌市豊平外四箇村聯合用水組合沿革誌」1943 札幌市豊平外四箇村聯合用水組合 pp. 70
本年度(※昭和十四年)当初は苗の発育良好なりしに、一時冷温の為発育遅れたるも七月下旬頃より残暑にかけて天候に恵まれ出穂結実共に上乗とせられ唯八月中の渇水時に空沼嶽に神体奉安雨乞時間分水を為したるものありしも一部浸水個所を除き全面的には優良と認められたり。
※カッコは筆者
福嶋利雄「札幌市豊平外四箇村聯合用水組合沿革誌」1943 札幌市豊平外四箇村聯合用水組合 pp. 88
竜神さま
平岸本村は、入植早々に水がなくて困るのに、東裏には、小さいが天然の川があったほか、今の東裏の麓あたりには湧き水もあって、はじめの間は水で困ることはなかった。だが、それが水田造りになると、とてもそれでは間に合うわけがなかった。用水路は、明治25年、豊平村、平岸村(本町・東裏)白石村、上白石村の4か村有志総代により開さくすることになったが、道庁による補助推奨金の支出、工事の許可を数回にわたって陳情したのにその都度却下される。27年、やむなく4か村連合用水組合をつくる。4か村の農民の総力によって、まず真駒内川と精進川との水を平岸本村用水路に引き、あと、平岸東部、東裏、美園、豊平、白石、上白石を通って東米里で望月寒川に注ぐ水路を開さくする。その時も、重延久太郎、卯平の父子は、進んで用水組合長、阿部仁太郎を助け、工事の完成に力を尽くした。用水路は水田化をうながし、水田化は東裏への入地をうながした。水田が増えると、日照りつづきには水不足で、水不足は水争いにつながった。せめて自分の田へだけは十分に水をやりたいと願う気持ちはお互いさまで、中には早朝、まだ暗いうちに起きて、自分の田へ水を引こうとしたり、夜中に起きてそれを取り除いたり、また水門の番をしたり、いうにいえない苦労があった。4か村水路のうち、いちばん上に位置した東裏では、主導権をにぎる形になっていただけに、帰って我儘はゆるされず、下の部落の面倒を見る立場であった。昭和5年、4か村連合用水総会は、そのことで精進川水門わきに「竜神山祠」を勧進するの件を提案、いわゆる「雨乞い」をすることになる。精進川をさかのぼること、およそ二十キロメートル、そこに一二五一メートルの空沼岳を見る。水不足の元を正せば、そこに雨が降らないのが原因である。人々は水門わきもさることながら、水源の山に直接祈ろうと考える。まず、四か村から選ばれた五十人の男達が、揃いの白い装束をつけ、一様に修験者になったような気になる。毎年、それは雪解け水がなくなる6月になって行う真剣な年中行事出会った。つぎに、屈強の男達によってご神体が背負われる。ご神体、実は竜神をまつる軟石で、目方はおよそ四十キログラム。そうして、他の男達は、御神酒をはじめ、供物を背負う。空沼岳に達して真簾沼に至ると、うやうやしくご神体をおろす。供物を神前に供える。一緒に行った神官とともに、「今年もまた、どうぞ水不足のおきませんように」と祈る。川上の東裏の者はもちろん、川下の上白石の者に至るまで白装束の男達は、いとも敬虔なそぶりで祈る。このような風習は、ここだけのものではなくて、近くでは、石山常磐地区にもそれがあったといわれている。今、それぞれの村は、それぞれに宅地化された。水田もめっきり減って、誰も雨乞いなどはしない。消毒液の臭いさえ我慢すれば、水道栓をちょっと回すだけで水がたちまち出るからである。定山渓の奥の豊平峡を囲む、札幌岳、狭薄山、漁岳、喜茂別岳と、それに空沼岳も含めたそれぞれ千メートルをこえる山々の青冽な水がふんだんに送られてくるからである。清療院の奥の麓に、今も湧水がある。平岸4条15丁目、おそらく今に残るただ一か所のそれは、真夏の太陽の下の緑陰にひっそりと水をたたえている。思わず口に含む。爽快な本当の水の味がそこにはあった。いま、ご神体の石は、石山常盤の桐越家によって小さな祠をたてられ、大切にまつられている。
1980/3/11「さなぶりー東裏百年記念誌ー」編集 東裏親交会 代表重延実 楡書房
湯の沢(ゆのさわ)
真駒内川の上流、急真駒内御料地であり、豊平町大字平岸字湯の沢であったが、昭和十九年(一九四四)の字名改正のとき常盤に包含された。明治三十五年(一九〇二)徳島県からの入植者が開拓した地域である。
同三十八年ごろ、奥の沢に白い粉のついた石が発見され、お湯が出ているのではないかと多くの人が探索に入ったところから湯の沢と呼ばれるようになったと言われる。湯脈があるという言い伝えは、道の地下資源調査でも明らかとなり、昭和四十八年(一九七三)ボーリングを行ったところ、三二度のお湯が噴出した。しかし市街化調整区域内であり、現在は自家用に使用されているのみである。
湯の沢と真駒内川の合流点から、約三0キロメートルの国有林地内の湯の沢の川床に褐鉄鉱が発見され、真駒内鉱山と呼ばれて、戦時中の十八、九年ごろ採掘して馬そりで定山渓鉄道の石切山駅まで運ばれた。
湯の沢は空沼岳の登山口でも知られており、空沼岳は雨乞いの山で、日照りが続いて下流の農家の人たちが雨乞いに登ると、必ず雨が降るので湯の沢の人達が困ったと語り伝えられている。
湯の沢は水利もよく、水田が開かれ、マスやヤマメがたくさん獲れた豊かな農村であったが、水田の減反によって過疎化が著しく、在住者は数戸に過ぎない。
札幌市教育委員会 編「札幌文庫1 札幌地名考」1977 編集 札幌市教育委員会文化資料室 発行者 戸田正彦 発行所 北海道新聞社
札幌市南区にある空沼岳中腹の真簾沼の龍神観音像と似た半人半龍の像です。 真駒内川や精進など側からの用水路網を利用した人々によって祀られたもので、二つの龍神観音像以外に、 現在の地下鉄南北線の自衛隊駅前付近に取水口があり、ご神体が祀られていました。 役目を終えられたご神体は常盤のK氏宅にて祀られていましたが、平成8年に津軽にある高山稲荷神社に移設されました。 何故高山稲荷神社なのか、これについては別途調べている最中です。 東北から北海道に存在していた開拓時代の習俗の営みの一端を知る手がかりになりそうです。
2016/9現在、この場所はポケモンGoのジム(育成したポケモン同士を戦わせる場所)になっています。 竜のような姿をしたゲームのキャラクターが龍神観音像のGPSの座標に論理的に配置されている様子は一見して滑稽です。 しかし、AR(Augmented Reality/拡張現実)という先進的な技術と、竜神信仰という原始的な信仰とを対比して考えることは、 人々の認識という機能を考えるうえで興味深い視点となりうるのではないでしょうか。
所用を経て11時頃にランニングしながら龍神像の前を通ると、祠の前で2名で祭祀の準備をしていた。 近所に住んでいながら全く知らなかったが歳初めの第一日曜日に毎年神事を行っているという。 仮設された祭壇には30センチほどあるだろう立派な鯛が一匹、鏡餅、きゅうり、なす、リンゴやミカンなどが奉げられている。
準備をしていたIさんに聞いたところ、龍神信仰というよりは氏神信仰のような形態で、地元の有力者の方に連合町内会が協力をお願いして、地域一帯で土地の神様を祭っていることが分かった。 その方が大分前に管理を引き継いだ際に聞いた話だと、豊平川の上流にある豊滝地区や、豊平川などなど、かつては豊平川の上流から少なくとも8体ほどは龍神が祀られていたのだという。 現在の祠は3代目になるもので、古い祠の写真もご自宅にはまだあるとのことで後日伺うべく連絡先を教えてもらい、いったんランニングの続きをしつつ急いで自宅に戻った。
撮影機材を整えて13時から始まる神事を見たい一心で再びその場に足を運んだ。 近所に住む連合町内会の役員をされているKさんが参列していて声をかけられた。 ここにきた経緯を簡単に説明して参列者の片隅に混ぜてもらいながら撮影した。 以前撮影した秋の神事同様に豊平神社の神主によりその場が取り仕切られていた。 12名ほどの氏子さんを前に粛々と儀式は進み、自分も神社のお参り同様に見よう見まねで拝ませてもらい、最後に集合写真を撮影してお土産まで貰ってその場を終え、 近所のKさんを駅まで送り届けた。
豊平川近くにある神社で今年ひいたおみくじは珍しく大吉だった。土地の神は形を変えながらも受け継がれていることを知って早くもありがたいご褒美を貰えたような気持ちに満たされた。
2019/01/06 追記
龍神様を平成30年頃から管理しているIさんの事務所に伺って話を聞く。平成の時代とともにあった龍神様の歴史が分かった。何故一度駒岡に収められ、元の場所近くに戻ってきたのか。
大筋では龍神様の横に立ててある看板の通りだった。かつて真駒内用水の取水口のあった近くにあった龍神様は、真駒内地区の高度経済成長時の土地の整理に伴って、河川敷用地を追われ、龍神講の一員であった吉川さんの持ち物であった釣り堀のある駒岡に移り、またオバタ会長時代の連合町内会の要請により縁があってもとの場所に戻ってきた。かつてあったという龍神講がそこでは密接に関係していた。新たに祠を作って祀るためにはたいそう資金が必要で、各所で募金を募り、数年かけて資金を集めて立派な祠を作ったという。
かつてはいくつかの記録に合った通り、雨乞いが豊平川沿岸の、定山渓からモエレまで続く対となる龍神にそって行われていたという。これについては別途まとめないといけない。すくなくともモエレにある現在の龍神とは違うものだと思われる。定山渓、真駒内、空沼、豊平川、モエレ、とIさんは言っていた。雨乞いとして、ご神体を背負って白装束を着て、という形式は東裏に残されていた内容で間違いなかったようだ。直接見たことはなかったが、龍神さんを管理するようになって事務所を訪ねた方々から当時の様子をたくさん聞いたのだという。
Iさんの事務所の壁には、30年前に移設されたときから、2度改築を経た際の写真が画鋲で飾られていた。春になったら豊滝にある龍神さんを一緒に拝みに行く約束をした。
2019/02/18 追記
「大正4年(1915年)5月、竜神の碑と祠を建立」とあるのだが、「札幌市豊平外四箇村聯合用水組合沿革誌」にはその記述を見つけられなかった。大正四年に豊平神社で記念碑建立の記載はあるのだが。ひょっとすると間違いだろうか。 少なくとも現在の龍頭観音は昭和5年に祀られたことは間違いなさそうだ。 (2019/3/22)