#077 / 尾岱沼の竜神神社(野付神社)

竜と化した怨念の女に由来する尾岱沼(おだいとう)の神社

住所
野付郡別海町尾岱沼潮見町
緯度、経度
43.567133, 145.219354
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来

「竜と化した怨念の女」

野付先竜神のいわれ 別海


根室海峡にエビ状に延びている別海町の野付岬。この東南端を竜神岬といい、かつて竜神神社が建っていた。竜神にまつわる奇怪な伝承を「根室千島領国郷土史」から。

昔、宗八という若い衆が四、五人の仲間とともに舟で漁に出た。野付岬沖で漁をしていると急に大シケになり、舟はもみくちゃにされて海中に投げ出され、仲間たちはつぎつぎに波にのまれてしまった。

宗八は死にものぐるいで泳ぎまわっていると、艶やかな女が海上に惚然と現れ、柔らかな衣で包んで助けてくれた。

女の家へ運ばれた宗八は、夢うつつのうちに何日か過ごすが、ある月の夜、女に求められるまま結ばれた。それは燃えるような幸せだった。

そんな暮らしが何ヶ月か続いて、宗八は故郷のことが心配になってきた。

「一度、村へ帰り、両親の許しを得て戻ってくる」

と言い残し、女と別れて舟で村へ帰った。

死んだと思ってあきらめていた両親は、宗八の姿を見て夢かとばかり驚き、泣いて歓迎してくれた。

ところが何ということか。婚約中の網元の娘との祝言が待ち受けていたのだった。

宗八は危機を救ってくれた妖艶な女を忘れられず、さりとて恩義のある網元との約束を破棄することもできず、悩み抜いたすえ義理を通して祝言を挙げた。

翌朝、村のしきたりに従い、新婦を船に乗せて漁に出た。沖合に近づくとにわかに高波が押し寄せ、妖艶な女が惚然と現れた。と思ったその瞬間、女は恐ろしい竜と化し、舟はまたたく間に転覆し、二人は海底深く沈んでしまった。

村人たちが舟を出して捜索し、波間にただよっている新婦の遺体を発見、引き揚げたが、奇妙なことに新郎の遺体はついに見つからなかった。人々は、

「宗八は竜神さまに連れていかれたのだ」

と言って、慰め合った。

それから以後、若い男女を乗せた舟がこの岬を通りかかるとかならず風波が起こって難破するようになり、竜神の仕業と恐れられた。集落の人々は竜の突端に竜神を祀り、怒りを鎮めた。これを祀ってから野付岬の海域で遭難はなくなった、という。

この話しは実際に起こった海難をもとにしている、と思われる。生死の淵から生還した若者が、まぼろしの女を見、夫婦が遭難したことで、竜神の存在へ結びつけたのだろう。

竜神が美女に化身する話はほかにも見えるが、この伝承は浦島太郎の竜宮伝説を連想させて、楽しさの中にぞくっとする怖さを感じさせる。

竜神神社が建っていたあたりに現在、野付灯台が建っている。竜神神社は野付湾を隔てた対岸の尾岱沼の集落に移され、いまなお漁民の厚い信仰を集めている、と知らされた。

合田一道「北海道おどろおどろ物語」1995 幻洋社
由来2

―野付半島の龍神岬― 波にのまれた宗平


 これは、野付半島の龍神岬に伝わる話です。

 むかし、むかし、宗平という元気な若者がおりました。宗平の家は、父も、祖父も、曽祖父もずっと先祖代々漁師をやってきました。腕前がよくいつもたくさんの魚をとるという評判のよい一家でした。

宗平もあとをつぎ、漁師となりました。子どもの時から家の手伝いをしていたので、宗平も大変腕のいい漁師でした。

ある日、宗平は仲間達といつものように漁に出かけました。力いっぱい舟をこぐと、舟はすいすいと矢のようにはやく進みました。この日はよい天気で波もおだやかでした。誰もが

「今日はきっと大漁にちがいない」と期待に胸をふくらませていました。

野付岬の沖について網をうち、漁をはじめたときです。突然、空はみるまに黒雲におおわれ、強い風が吹き、おだやかであった海は、荒々しい波をたてはじめました。大きなうねりが次々ときて、仲間の舟も木の葉のようにもまれました。みんなは必死になって、岸へ向けて、一刻もはやくもどろうと力いっぱい努力をしましたが・・・・・・、あっというまに舟はつぎつぎにひっくりかえり、みんな海へほうり出されてしまいました。

宗平の舟も転ぷくしてしまいました。宗平は夢中になってもがき、仲間を波間からさがしましたが、誰もみえなくなりました。

宗平は水をたくさんのんでしまい、もうだめだとあきらめました。その時、大へん美しいおとめが宗平の方へ近寄ってくるのがちらりと見えました。死にそうな宗平は、そのおとめのきれいな衣服が自分をふんわりと包んでくれたような気がしました。しかし宗平は、そのあとは意識がなくなり、何もわからなくなってしまいました。

宗平がはっと気づいたのは、静かな野付岬の砂浜でした。嵐がおさまったおだやかな海は、青白い月の光にキラキラと輝いていました。宗平は、死にそうになった時にちらりとみたおとめが、そばにいるのに気づきました。

宗平が助けたおとめは、それはそれは美しい人でした。二人は、月の光にてらされた砂浜を歩きながらいろいろ話をしました。二人は大変気があい、すっかり仲よくなって毎日楽しくすごし、結婚をする約束をしました。宗平は、自分の村に一度帰ってくることにしました。

村では、死んでしまったとあきらめていた宗平がもどってきたので、みんな大喜びでした。両親は、宗平に嫁をとらせようと前々から考えていました。元気で帰ってきたので、おめでた続きにこの際、嫁をと強くすすめました。

宗平は、自分を助けてくれた美しいおとめと結婚の約束をしたので、縁談をことわりました。

両親がお嫁さんにとすすめた人は、網元の娘さんでした。網元は宗平を大変気にいっておりましたし、両親は網元からたくさんの借金をしており、その借財を返していくほどの余裕がありませんでした。それで両親は、網元の娘さんと宗平が結婚することをのぞみ、宗平が好きな人と結婚するのをみとめませんでした。両親の苦しい立場に、宗平は無理がいえずになやみましたが、とうとう網元の娘との結婚を承知してしまいました。

やがて、結婚式もめでたく終わりました。宗平の住んでいた村では、式のあと新郎と新婦が舟に乗って二人だけで漁に出る習慣がありました。宗平たちもこの習慣に従って、漁のおだやかな日に舟に乗って初漁に出かけました。

やがて舟がノツケ岬にさしかかると、今までのよい天気は一変してすざまじい風が吹き、波は狂ったように荒れ、舟は沈みそうになりました。

その時、かつて宗平を助けてくれたあの美しいおとめがあらわれましたが、あっというまに恐ろしい龍に変わって、宗平夫婦にたち向かってきました。宗平たちの舟は海の底深くに引きずりこまれ、二人の姿を二度とみることはできませんでした。

この後、ノツケ岬を通る舟に若い女性が乗っていると、必ず大あらしになって恐ろしい龍があらわれ、舟と人を海底に引きずりこみました。それで無事に帰れた人はいませんでした。

村人は、舟がよく沈められた海の海岸に祠を建てて、ねんごろに龍神をまつりました。それ以来龍神に会った人はいないということです。

その岬のことを人々は「龍神岬」と呼ぶようになりました。祠は、明治時代の末に尾岱沼に移されました。

現在は白い灯台が建ち、航海する船の安全をはかっています。


解説

この話は、根室・千島両国郷土史(昭和8年)という本の中に古野生祐吉さんという人が書いたものをもとにしました。戸田久吉さんによると、もっと古い時代に書かれた小冊子を見たことがあるとのことで、原本があると思われます。

江戸時代、明治時代は龍神岬や、根室半島の納沙布岬沖を船が通るのは大へんなことでした。多くの船が沈んだり、破船したことが龍神岬の伝説を生んだのではないかと思われます。

龍神岬には古くから祠がありました。年代のはっきりしているのでは、安政5年(1859)に大阪で造られた祠です。祠の裏に「安政5年3月吉日、大阪新町宮井之辻、細工人宮屋吉右衛門、同半次郎、柾居惣之」と記されています。ですからこの年か、翌安政6年に龍神岬(現在の北斗水産裏の道路のそば)に建てられたものでしょう。それ以前のことはよくわかっていません。

祠を注文した人は、当時根室地方の漁場を請負っていた藤野喜兵衛という人か、その漁場で働いていた支配人とか責任者のような人ではないかと思います。祠の中には、明治18年に改築した時のことを記した木板や漁場の支配人や大工棟梁の名前を書いた木板などがありました。豊漁を祈り、航海の安全を願うための祠ですが、明治時代の末には守る人もなく、いたむので明治42年11月に尾岱沼へ移されました。

昭和25年に「大綿津見神社」と改め、同36年に社を新築、「野付神社」となりました。

標津町役場 ―野付半島の龍神岬― 波にのまれた宗平
由来3

野付岬の竜神 --別海--

むかし、根室の別海町野付岬の近くに宗平という漁師が住んでいました。

ある日宗平は仲間の漁師たちと漁に出ました。ところが舟が野付岬にさしかかると急に天候が変わって大時化となり、仲間たちはつぎつぎと海の中へ沈んでいきました。

宗平の舟も沈んでしまいましたが、板につかまり死にものぐるいで荒れた海を泳いでいました。

すると突然、波間から美しい乙女があらわれ、手にもったやわらかい布で宗平をつつむように助けあげたのです。

それから、そこがどのような場所で、どのくらい日数がたったのかわからぬまま美しい乙女と時をすごしました。乙女は宗平に好意をもち、宗平も同じ気持ちだったので夫婦になる約束をしたのです。

そして、また時がたち、宗平は乙女にかならずもどるといい残して、野付岬の村へ帰ることとしました。

宗平が野付岬に帰ると村や家は元のままで、しかも親がきめた婚約者である網元の娘との結婚式の日でした。

よろこぶ両親や世話になっている網元への義理からしかたなく結婚をしましたが、心はいつも海で助けてくれた乙女のことを考えていました。

そして、そのころの村のならわしにしたがって結婚した二人は舟で初漁に出ました。二人の舟が沖へ出ると、野付岬の方から急に荒波がうずまいて二人をおそい、美しい乙女があらわれたと思うと、その姿は大きな竜に変わり、舟をうちつけて沈ぼつさせ、二人は海の中にひきこまれてしまいました。

このことがあってから野付岬を通る舟に若い男女が乗っていると舟がてんぷくするといわれるようになりました。また、村人が竜神の怒りをしずめるため岬に竜神神社をたてましたが、あとで尾岱沼に移したそうです。

(北海道の伝説・再話)

北海道口承文芸研究会編「北海道昔ばなし 道東編」1989 中西出版
由来4

幕末にネモロ場所請負人藤野四郎兵衛は野付半島の最も曲がった竜神崎にあった番屋(野付崎灯台の近く)の後方に祠を設けた。一八五八年(安政五年)三月に大坂新町の大工に頼んで翌五九年野付に築造、明治一八年に改築したことが木坂の墨書から読みとれる。「龍神社」といっていたようだ。薄漁になってから祠も放置されるようになり、同四二年尾岱沼の有志三名と青年団が藤野家と交渉し、尾岱沼に移した(別海町百年史)。尾岱沼では初め八大竜王神社といったが、昭和二五年から大綿津見神社、同三六年から野付神社と称している。

平凡社「日本歴史地名大系第一巻 北海道の地名」2003 平凡社
参考資料・情報など
北海道おどろおどろ物語
合田一道「北海道おどろおどろ物語」1995 幻洋社
北海道昔ばなし 道東編
北海道口承文芸研究会編「北海道昔ばなし 道東編」1989 中西出版
標津町役場-北海道標津町役場のホームページです
標津町役場 ―野付半島の龍神岬― 波にのまれた宗平
標津町百科事典 / ふるさと学 / 標津に伝わる話 / 野付半島の龍神岬
日本歴史地名大系第一巻 北海道の地名
平凡社「日本歴史地名大系第一巻 北海道の地名」2003 平凡社
北海道縁起物語
小林成光「北海道縁起物語」1992/5/1 有限会社 小林興業社
根室・千島両国郷土史
本城玉藻編「アイヌ語地名と伝説の岩」1933/4 北海道根室市大字常磐町3丁目2番地 本城寺
現地確認状況
2019/04/30 確認済
その他

根室市 納沙布金刀比羅神社を後にして車を走らせる。 野付神社についたのが17時前、車を敷地内にいれたもの、半島に向かうことを考えることを考えると日暮れまで時間は少ない。 思い切って降りることなく再び車を走らせて半島の先端まで行ってみることにした。 今思えば神社の写真ぐらいは撮っておけばよかった。何の変哲もない神社には見えたが、記録を残す残さないで大違い。 我ながら焦りすぎて判断が甘かったことが悔やまれる。

半島の道は風情がある。両脇から海が近づいたり陸地が広がったりする。遮るものが少なく遠くまで見通せる。左手にナラワラが見えてきた。立ち枯れた木が並んでいる。 車を停めてじっくり見たいところだが、日没まで時間が迫っている。 時間配分が甘かった。北海道は広い。 日が傾きかけてはいるがなんとか野付半島の車でいける先端までたどり着いた。 その殺伐とした景色に魅せられて写真を撮る。 前をノロノロと走っていた仙台ナンバーのプリウスから降りてきた数人の初老の中のうち、一人の男性が近くに公衆トイレがあるのにも関わらず駐車場のそばで笑いながら立ち小便をしていてげんなりした。 半島の先端に向かうカメラを持った男性が遠くに見えたのでそちらに向かうことはやめて、誰もいない左手側の海岸線、竜神岬付近を歩く。 漁具や木造船が砂に半分埋もれてあった。廃村になった漁師町のような殺伐とした雰囲気だった。ハマナスぐらいしかわからなかったが、背の低い湿地帯と海岸帯を足したような植物たちが人工物に覆いかぶさっていた。

そのうらぶれた場所を歩いていると、ここにいるのは自分一人だけであり、うまく言葉にできないが遠い場所を旅していること、道東にきたことを実感できるようだった。 車で少し戻ってトドワラを見られる野付半島ネイチャーセンターに車を停めた。センターは17時を過ぎてすでに閉まっていた。トイレを借りてからトドワラを見るために遊歩道を歩く。 日が沈みかけていて、それがまた一層風景を魅力あるものにする。 間隔をあけて何組かがトドワラを目指して思い思いに歩いている。 日が傾いてきて辺りは夕暮れ。風も弱く絶好の観光日和となった。低木の茂みの中でシカが数頭こちらを見ながら慌てる様子もなくのんびりと休んでいる。 3キロぐらいはあっただろうか、散歩道は思ったよりも距離があり往復1時間弱はかかるようだ。 空は暖色のグラデーションが広がり、遠くに見えるのは羅臼岳だろうか、山が桃色に光り輝いている。 徒歩で歩くことによって身体で場所を味わうことができる。視覚では受け止めきれない大地の感触が体に残っている。 スマホやデジカメで皆写真をたくさん撮っているようだった。それもまたなんだか心地よく感じた。 本日の撮影はここまで、最後にフォトジェニックな風景を見ることができて素直にうれしかった。 この場所にテントを張って一夜を過ごしたらきっと一晩中素晴らしい光景を眺められるだろう。

機材を車にしまい込んで本日の寝床である網走に向かって薄暗くなってきた道をゆっくりと車を走らせる。 レンタカーはライトカバーが曇っていて、光が弱く暗い。鹿が道路わきから飛び出してくることだけが怖くて神経を使う。万が一鹿と追突してしまったら鹿の命も車の命も失ってしまいかねない。 次第に夜の闇に包み込まれている道をひたすら車を走らせる。 カーラジオでFMよりは受信しやすいAMを聞こうとするが、電波の状況は定まらず、人の声も音楽も聞こえない砂嵐の音を聞きながら暗い道を一人で運転していると、一日の疲れもあって自分の存在自体もあやふやになって体が溶けてしまうようだ。 浮かんでは消えていく家族のことや仕事のことやとりとめない日常のことを考えながら、いつの間にか網走に到着していた。 距離は長かったが予定を詰め込みすぎて頭がへとへとになって無心だった。 事前に調べていた目的の温泉はGW中日帰り入浴は停止していたのでこの日の入浴をあきらた。 網走の道の駅は車中泊の車でごった返していたが、トイレから離れた駐車場はゆとりがあった。 車中泊をしているだろう小さなバンからは、子犬の鳴き声がずっと聞こえていた。 海がすぐ目の前で窓を少し開けると波の音が聞こえてくる。明日の予定を確認し車中を整えてコンビニで食事やビールを購入して、携帯ラジオを聴きながら簡単に今日を振り返り、明日の予定を確認し、この日の行動を終えた。 夜寒くて目覚めたが、フリースの上にフリースをもう一枚着ることで早朝まで深い眠りに着くことができた。 次の日の天気予報はあまりよくなかったのが心配だったが、大雨にさえならなければなんとかなるだろう楽観的に考えることにした。 翌日朝5時過ぎに起きてコンビニで軽食を買って常呂神社 神社龍神の水に向かった。

(2019/05/22)

更新履歴
2019/05/22 写真掲載、そのほか追記
2016/10/17 更新
2019/04/30
2019/04/30
2019/04/30
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