#239 / 浜町の網元鳥越家にあった龍神

浜町の網元鳥越家にあった龍神

住所
〒053-0012 北海道苫小牧市汐見町2丁目8−13
緯度、経度
42.628308, 141.613218
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来

網元鳥越家の敷地内に龍神様の祠があり、付近の漁師をはじめ、鳥越家の旦那、奥様も熱心に信仰していたという。

当地出身者より2021/6に直接聞き取り
由来

E-23

漁業の守護神

魚籃観音像

◎所在地 汐見町2−8−13 魚籃観音堂内

◎建立 昭和10年頃

◎管理者 魚籃観音講

昭和7、8年ごろ、浜町で浜砂や砂利を採り、販売していたある男がいた。いつも通り前浜(旧苫小牧川河口付近)で荷馬車に砂利を積み込む仕事をしていた。ところが、急に異常な重さでスコップが動かなくなり、半信半疑掘り返したところ「胴体だけの首無し観音様」が出てきた。

あわてふためいた男は、さらにあたり一面を掘り返し観音さまの「頭」の部分を見つけた。頭と胴体部分が別々に上がったのである。

観音さまを家に持ち帰った男は、もともと不信心であったとみえて自宅の物置に放り投げて置いた。男の妻は「いい具合の石がある」と、漬物石代わりに何くわぬ顔で使っていた。

この夫婦には、育ち盛りの元気のいい男の子がいたが、突然原因不明の病気にかかり、三日後には息を引きとった。このようなことがあってから、漁は不良となり、海はシケが続いて何日も沖へ出ることができなかった。

たまたま観音様が、粗末にされていることを知った大槻某は左官の経験もあり、器用であったから「首なし観音さま」をもらい受け、頭と胴をつなぎ一見、誰が見ても分からないぐらい見事に修復した。

元の姿に戻った観音さまは、浜町の山田漁場の親方、山田勝太郎(正儀の父)が譲り受け、大切に保管することにした。

慈悲深かった勝太郎であったから「観音さまに無礼なことがあってはならない」と考え、有力者の鳥越兼次郎に預けた。

兼次郎の妻・イチは信仰心の篤い人で「このような尊いものを、蔵に置いて置くのは畏れ多い」と自宅の庭に小さな祠を建て、観音さまを祀った。

(中略)

昭和四〇年代に入り、汐見町には漁民団地が形成され五十年(75)十二月に水産会館ビルが建ち、魚籃観音堂が建設されて「魚籃観音像」は堂観音堂内に移設、安置された。

苫小牧郷土文化研究会「とまこまいの石碑」2001.4(P148,149)
参考資料・情報など
「とまこまいの石碑」
苫小牧郷土文化研究会「とまこまいの石碑」2001.4(P148,149)
現地確認状況
確認済み
その他

浜町出身の親族からの聞き取りをきっかけに調べ始めた苫小牧浜町の龍神信仰について制作と並行して調べを進めた。

図書館にリファレンスして、鳥越家のざっくりした情報だけは入手していたが、祠については資料が見つけられなかった。 苫小牧市美術博物館のHさんにお力添えいただき、幸運にも市史編纂に携わっているFさんに話を伺う機会を得た。 「苫小牧市史 資料編 第二巻」の付録地図にある、昭和9年と31年の地図、昭和8年の航空写真をもとに当時の浜町の様子、市場と鳥越家、そして鳥越家の庭にあったという祠の位置関係を確認する。 次いで、龍神様の由来やその後のことが詳細記載されていた「とまこまいの石碑」の複写資料と、鳥越家の奥さんが掲載されている新聞記事の複写、当時の地図を見ながら祠の位置などを教えていただいた。 見つからないだろうと半ば諦めていた鳥越家の祠の全貌が明確になった。 ニシン漁の衰退と、王子製紙によって町の勢力図が劇的に変化した時代背景の中で、街がどのように発展変化してきたか、その中で民間信仰としての龍神さまがどのような命運を辿ったのか、あらわになった。

龍神様とは魚籃観音像であった。浜に打ち上げられていたものが信心深い鳥越家の手に渡り、祠に収められて大切にされてきたものであったという。 当時の旦那も奥さんも大切に拝んでいたと姿を見たという聞き取りの話からも、信心深さが伝わってくる。 付近で行われた盛大な夏祭りの中心として、鳥越家は重要な役割を果たしてきた。 北海道内外で、浜に打ち上げられたり、漁業の網にかかった御神体や、何かの形に似ている岩や流木が御神体として崇められ、御神体として民間信仰の対象となるケースがいくつもある。 その偶然であり、必然的な出会いから信仰という行為が明確な輪郭を持つ。

ニシン漁が衰退し、遠洋漁業へと舵を切っていった浜町の漁業関係者の勢力が、王子製紙という大きな経済力を持つ企業活動を中心とする産業構造にとって代わっていく。漁業関係者の依代であった魚籃観音像は当時の有力者であった鳥越家に寄贈され大切にされ、それが現在は魚籃観音講へと受け継がれていっていた。講については魚籃観音像が収められたお堂が苫小牧漁協水産会館と接して建てられていることから、漁協によって管理されていることが推測できる。 観音像が海岸で見つかった時期はニシンがちょうど獲れなくなっていった昭和8年ごろの時期と重なる。 不漁を極めた時期の漁民の切実な思いがそのまま観音様への信仰に結びついていることが容易に想像できる。 漁業関係者には龍神や金毘羅信仰が数多くあり、付近の漁業関係者にあらかじめそういった信仰があったところに、ある種のシンボルが偶然加わり、依代となった。 信心深さは願いの強さであり、祈りの強さであり、自然に対して人が抱く敬虔なる想いが具現化された行為である。 素朴な民間信仰とはそこのある人々の暮らしや営みの象徴であり、信仰について知ることで当時の人々の眼差しを追体験することにつながる。

聞き取り時に漁業関係者が「龍神さま」と呼んでいたものが魚籃観音像だと知り感無量。 苫小牧には、勇払の龍神社、浜町の魚籃観音像、糸井浜神社の龍神の石、白老の萩野神社の龍神の石、虎杖浜にあった漁名神社の龍神様、と当時の漁業の繁栄を裏打ちするように沿岸部に信仰があったことがわかっている。 ニシンが人を呼び、人は自然に対して信仰心を持って接し、その恩恵を受けてきた。 そういった歴史に触れることで、目の前に広がる何もない海も山も豊かに微笑んでくれる。

そのあしで魚籃観音像に向かう。近くにある海鮮で有名なマルトマ食堂は長い行列ができていた。 あいにく堂のドアには鍵がかかっていて内部はガラス越しでしか拝めなかった。また日を改めてくることにする。 苫小牧魚菜市場後はまだ空き地になっていて、その痕跡が明確にわかるというのでそちらも確かめに車を走らせた。 広い敷地が空き地のままになっており、残された壁の様子から、経過した時間と営まれてきた歴史をぼんやりと想像した。 その並びにあった鳥越家と、その庭にあった祠から程近くに海岸がある。かつては砂浜が広がっていて、ホッキがいくらでもとれたという。 侵食されて狭くなった海岸には多くの護岸ブロックが配置されている。そのさきに波が立ち、遠くには大型船の姿があった。 工業の町だと思っていた苫小牧だったが、開拓とひとくくりにされることが少なくない歴史の中で、営まれてきた市井の人々の姿が波間に見え隠れして見えた。 (2021/7/16)

更新履歴
2021/07/16 記載
2021/7/17
2021/7/17
2021/7/17
2021/7/17
2021/6/21
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