かつてあった沼に祀られていた七面様と呼ばれていた龍神の祠
じゅんさい沼、ほこらは七面様とよばれたものである。この沼は、いまの大町から小学校あたりに広がっていた。写真は対象6年ころのものである。
(中略)
七面さんのほこらへは舟で渡った。お祭りであろうか、服装はいわゆるよそゆき用である。大正6年ころ。
(中略)
現在長万部小学校の建っているあたりは、当時沼の端とよばれていた。国道から海側は沼や古川があって、まだ人家は少なかった。
いま大町とよばれる地帯の大半はかつて大沼とかじゆさんさい沼とよばれる水面がひろがっていた。沼には龍神をまつる祠があり、張り渡した針金をたぐって進む渡し舟でおまいりに行き、春の終わりころになればじゅんさい採りをした。じゅんさいはビン詰めにして商品になったこともあるという。
なんびきもの野犬におそわれた馬が逃げ場を失って沼にはまり食い殺されたこともあるというし、鯉や鮒がたくさんいた。リブチャというアイヌが沼で死に沼の北側に卒塔婆が立っていたこともあるそうである。
沼の底には主がいると言われ、時化で水死者が出れば、その後は沼で舟幽霊の声を聞いたという話が流れ、家事があれば前夜沼に火柱が立ったといううわさがひろがる。こうした伝説めいたものにおおおわれて沼は確かにあったのである。
ただ、沼がいつごろどこにどういう形であり、川がどこをどう流れて海に入っていたかということになると正確にはわからない。自然は永久不変のように見えるが、生きもののように変容する。ある時期ごとの図面でもあれば別であるが、古い記憶をたどって自然の変化を再現することは、すっかり変わった環境のなかではむずかしいことのようである。
なん人かの人に現在の長万部市外図をあげ、沼や長万部川のかつての在り様を書きこむことをお願いし、別掲の二枚の図を得た。
第一図は、昭和五十一年五月十三日、三浦大暢と本間七郎が二人連れで現地を歩きながら昔の記憶をたどり、市外図に再現してくれたもので「ほぼ正確と思われる」と書きこみがあった。単純な線画であるが労作と言わねばならない。
図によれば、明治末ごろは、現在の大町がほとんど沼で、いま役場庁舎の建っている前から農協・雪印工場の建物を経て調節されていたが、高潮にでもなれば水面は高くなり、あふれ出たものと想像される。
第二図は、大山庄一が書きこんでくれたもので、第一図から十五年ほどたった大正十四年ころのものである。沼はかなりちいさくなり、長万部川は第一図の古川の沼尻を破って現在の大浜と長万部の境から海に流れこんでいる。ある時の時化で長万部川の河口が砂でふさがれ、古川に流れこんだ水が、元の長万部川の川筋にかえったのであろう。この後、長万部川の改修がすすみ、河口が現在のところに固定されると、古川はまた第一図のような形にもどり、戦後埋立によって次第にせばめられ、ついに姿を消すのである。
こうして、沼や川の跡は幾度も姿を変えながら小さくなってゆくが、長万部小学校を改築するころ、そこは湿気の多い低地帯であったが、もう沼ではなく、沼の端とよばれていた。
長万部町史編集室「長万部町史」1977 長万部町