降雨を祈願し、橇負山で雨乞いを行った
開拓以来、旱魃により農作物の凶作が懸念され、しばしば農民らが橇負山に登って、雨乞いの行事を行った。この行事も、故郷での慣習を伝えたものであった。
夏日、大正三年(一九一四)、春季に早天が続き、融雪が近年まれに見る早さで、四月初旬には麦を蒔き終えた。晴天が連続し、大麦などの発芽が不良となり、再度種子を蒔いたが、生育不良となった。豆類もこの傾向で、農家は雨乞いのため、高丘地で太鼓を打ち鳴らし、五月節句には、留寿都市街地の一般住宅や農民が橇負山に登り、雨乞いを行ったところ、夕方から大雨となり、農作物も行きかえり、住民は歓喜の声をあげた。
その後、今度は八月二六日の夜から、翌二七日にかけて大風雨が起こった。これは大正二年の暴風雨と同じくらいで、留寿都における作物への被害は大きく、とくに手柴豆は生育の最盛期で、生育不能の作物が多く出る状況で、そば・いなきびなども被害を受け脱落をみた。
橇負山の雨乞いの行事は、日をたいたと推測される。真狩村字真狩別では、火をたく行事がみられた(大正三年真狩村勧業雑件文書)。
留寿都村史編纂委員会編「留寿都村百年史」2001留寿都村(虻田郡) 留寿都村