#088 / 江差法華寺の八方にらみの龍

福山より来た大雅が、寺の裏にいた大蛇を見て一気に書き上げた大作の絵。

住所
檜山郡江差町 本町71
緯度、経度
41.866274, 140.126620
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来
北海道庁編「北海道の口碑伝説」1940 日本教育出版社
由来2

八方にらみの竜 -江差-


江差は、古い町ですから、古いお寺がたくさんありますが「成翁山法華寺」というお寺も相当古いお寺です。何でも、承応二年(一六五〇年)に、日尋というお坊さんが開いたもので「妙翁院」と言ったそうです。その後、火事で焼けてしまい、それから十年程たって、今度は「日窓」というお坊さんが、現在の所に建てなおして「法華寺」と改めたのだそうです。

この法華寺の本堂をお参りして、天井を見ますと、その天井いっぱいにものすごく大きな竜が一匹描かれているのです。

すごい大きなまなこをランランと光らせて、まるで生きてでもいるようにじーっとこっちをにらんでいるのです。なんだか恐ろしくなって、あわてて目をそらし、こんどは部屋の端っこへ行って、そーっと天井を見上げると、さっきと全く変わりません。同じように大きな目玉を光らせてじっとこっちを見ているのです。

「あれっ、どうして?」

と場所を変えて、部屋のあっちから見ても、こっちからみても、どこから見ても全く同じように大きな目玉でじーっとにらむのです。

墨で描いた墨絵の竜です。七米四方の天井いっぱいに描かれているのです。

まなこは勿論のこと手足の爪のすごいこと、するどいこと、今にもひっさらわれそうな気がします。鱗の一枚一枚が、時に、生きて、立つようにもおもわれるのです。

たしかに、八方にらみの竜です。

こんな竜ですから、いろいろ不思議な事があるのはあたり前のことだ、と昔のおじいちゃんやおばあちゃんは深く信じているのです。

それは、この竜が、法華寺の天井にはられて以来、何度かあった江差の大火に、この法華寺だけは一度も焼ける事なく、そのまま残ってきたというのです。そして、それは、火事になると、この竜がいち早くそれを察して、そのつど、水を吹いてこの寺を守ったのだと、だから、”わしたちは昔々から『法華寺さんの鼻向の竜』ともいっているだよ”って。では、この竜を描いたのは一体どこの誰なのか、と知りたくなりますが、一説には、南画絵の画家として有名な、京都の「池大雅」の作だといわれているのです。そしてそれを描かせたのが、江差に住んでいた、港文仲という人で、この人は池大雅と親しくしておったのだそうです。

文仲は、大雅に後世に残る絵を描かせて、江差に残したいと思っていましたが、ある日、この竜の絵を描いた事を知ったのです。

実は、大雅の奥さんは玉ランと言い、その頃の女流画家だったそうですが、この奥さんが裏の林へ行きますと、大蛇がこっちをにらんでいるので、びっくりぎょうてん、飛んで帰って大雅に報告すると、大雅はすぐさま林へ走り、ややしばらくじっと大蛇をにらんでいましたが、

「よしっ」。

とばかり、手を打って家へかけ込み、さっそく筆をとって一気に描いたのが、この「八方にらみの竜」であった、と言うことです。

(北海道口碑伝説)

北海道口承文芸研究会編「北海道昔ばなし 道南編」1989 中西出版
由来3

二十三話 八方にらみの龍


数ある江差伝説の中でも、古刹法華寺の「八方睨みの龍」は山の上のヒーローである。

天明から寛政にかけて、江差を訪ねた紀行家たちも、当然のようにこの大作に注目している。天明四年(一七八四)に来訪した江戸の狂歌師、平秩東作は『東遊記』に次の記録を残す。

江差の法華寺の天井三間四方の所へ、真向の龍をかけり。京師の大雅堂なり。子渕が京都に在る時、大雅堂と交わり深かりければ、我筆を異域に残さんと思いたち、さまざまな古画を集め意匠をめぐらしけるに、いまだ不満の心有りしに、ある時玉瀾うしろの林へ出て見るに大なる蛇出で、こなたに向いたり。走り返りて夫に斯く語る。大雅堂行きつつぐづく見て掌を打ちて歎じて云う。画既に成れり。即時に筆を取ってこの龍を描けり。

注、子渕 港文仲という針医、江差の名主村上弥惣兵衛の親友 玉瀾 大雅の妻


寛政元年(一七八九)、三河の人、菅江真澄はその日記『蝦夷喧辞辯(えみしのさえき)』で次のようにその見聞を記録する。

みほとけの御前をふりあおげば、竜の、かしらまほにささげもて、三間にわだかまれり。これなん、みやこの霞樵が、七日いおゐ(精神)をして清水寺にこもりて、たかうな(筍)を筆に造てかいなしたるを、おしてけり。


『北海道の口碑伝説』に描かれる最も通説となっている「八方睨の龍」はこうだ。

この絵は『近世畸人』に登場する百十九人の一人、有名な京都の画師池大雅の作といわれ、本堂の三間四方の天井張に一杯に描かれたものである。墨絵で竜と金流をあしらひ、絵の中央に龍の頭があり、何れの側から望んでも、自分の方を睨んでおり鬼気身にせまるように思われる所から、花向の龍の別名「八方睨の龍」と呼ばれている。その由来をたずねてみるに今より約二百年前、江差に住した港北中が大雅と親交があったので、描いて貰って持ち帰ったというのだが、『松前五百年史』によれば寛政中大雅堂は当時の藩主の弟で絵をよくし、かねて親交のあった松前廣長に招かれたので、かの有名な玉瀾夫人を伴ない松前に遊んだ。その中江差法華寺本堂の天井に寄進するため龍の画を依頼された。奇人ではあったが画道に熱心な大雅は、福山より便船に乗って江差に来たり、実地に本堂を検分し、さて色々想を練った。或日彼の妻玉瀾が裏の林に行って見ると大蛇が蟠居してこちらを睨んで居るのを見い出し、驚き走り帰って夫に告げた。胸に一物ある大雅は早速その場に行き暫く大蛇の状態を凝視していたが、やがて家に帰るや否や一気に彼の大作を画きあげた。まさに国宝的価値を持つ名画で、美術史上にも特筆すべきものであろう。


江差きっての名刹法華寺の名画「八方睨みの龍」は本堂四間四方の天井張に描かれてある。この画の作者が江戸中期の南宗画の大家、池大雅だと言い伝えられていたし、事実、江差の人はみな信じ疑わなかった。ところが、教育委員会が昭和五十二年春、文化庁の調査官を招いての鑑定では「たしかに大作。大雅がこういう作品を描くことはあり得る」という結論しか得られなかった。何しろ肝心の落款がなかったのだ。

東作、真澄の記録をみると、前者は一気呵成、後者は沐浴斎戒で、製作の態度のニュアンスがかなり異なる。だが、大雅真筆を裏付ける強かな証言ではある。名画はやはり大雅の筆によるものだろう。

『北海道の口碑伝説』では、大雅は江差に来たことになっている。だが、それは寛政の昔とある。大雅安永五年(一七七六)四月十三日、五十四歳で没している。法華寺山門傍の案内板にある「池大雅、文化文政時代」は論外である。『近世畸人伝』によれば、奥州までは足を伸ばしたことが書かれてある。だが、江差に渡ったという証しはどこにもない。やはり東作、真澄の記録の線に沿って京都で制作し、北前船でこの地に運ばれたものとみるべきであろう。

江差民話研究会編「江差百話 江差の民話・伝説・史話」1993 江差民話研究会
参考資料・情報など
北海道の口碑伝説
北海道庁編「北海道の口碑伝説」1940 日本教育出版社
北海道昔ばなし 道南編
北海道口承文芸研究会編「北海道昔ばなし 道南編」1989 中西出版
江差百話 江差の民話・伝説・史話
江差民話研究会編「江差百話 江差の民話・伝説・史話」1993 江差民話研究会
現地確認状況
確認済み
その他
2017/5/13訪問。朝9時から見学可能だったが早めに到着してしまった。いったん鴎島を散策してから再訪する。 入場料300円を払う。お寺の中は撮影は禁止となっており撮影機材一式を車に置いて身軽になって案内してもらう。 静かなお寺の中に八方睨の龍が天井から私を見下ろしていた。天井に貼られた和紙に描かれているそれは、光の加減によって金箔がオレンジや緑に輝いていた。 得もいわれぬ表情で、ギョロギョロした目玉が部屋の何処にいってもこちらのほうを確かに睨んでいるように感じられる。 いつまでも睨まれていたくなる優しさと言ってよいのか、蛇に睨まれた蛙の心地よさと言ってよいのかわからない状態をしばし堪能する。 昭和四年当時の写真や、奥尻島沖の地震で被害を受けて八方睨の龍の絵を修復した様子が室内にひっそりと展示されていてそちらもまた興味深い。 そのあとお寺の中を引き続き案内してもらい、北前船によって江戸や京都から運ばれてきたというお宝を見せていただく。 漁業で栄えた江差と言う町の繁栄のいったんに触れたような気持ちになる。
更新履歴
2016/10/01 記載
2016/12/22 由来3追加
2017/05/17 その他を記載
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