虫の知らせ

#145 / 苫小牧 勇払の竜神さま

苫小牧 勇払の竜神さま

住所

北海道苫小牧市勇払46-2 勇武津不動尊

苫小牧市字勇払138番地1 恵比須神社 (苫小牧市)

※昭和32年勇払107番地の社殿を勇払138番地(現在地)に移転改築

緯度、経度
42.626807, 141.735119(勇武津不動尊)
42.634659, 141.727473(恵比須神社)
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来

二 龍神社と蛭子神社

幕末の勇払で川東にある勇武津弁天社と並んで、当時の信仰を集めた堂社に龍神社があった。この龍神社の名は、いまのところ当時の文献にはみることはできないが、弘化二年(一八四五)、松浦武四郎がこの地を調査して『初航蝦夷日誌』の中で「鎮守杜 運上屋の西タナシリの分(部)に有。従来より少し傍による也。」と記した鎮守杜こそ、竜神社と呼ばれた祠堂であったことが知られる。すなわち『苫小牧町史』によれば、慶応年間当地方に移住し漁業に従事した八戸伊興吉氏(故人)の談話の中に

「現在ノ神社ハ竜神社ト称シタリ、神体ハ山田文右衛門ノ身内ノモノ千歳神社ニオサメタリト云フ」。



というのがあり、当時の神社(蛭子神社)の本殿は慶応元年の建立によるものだと記している。また同書の中に「明治初年の勇払村の図面」があり、これによると漁会所(元のユウフツ会所)の西に大黒の社があり、さらにその西隣に竜神社が記され、そのすぐ傍に妙見堂がある。妙見堂は現在の「勇武津不動尊」(波切り不動)で、このお堂の位置は明治初年とほとんど変更がないといわれ、古老の談によれば、かつてここは蛭子神社の境内であったというからここにかつての竜神社があったことは確かである。また不動尊の南の国道より浜側の地に「タナシリ」という地番が残っており、かつてこの付近を「タナシリ」と称していたことから、武四郎の記した「運上屋の西タナシリの分(部)に有。と一致している。」ちなみに明治四年の『勇払・沙流・白糠・静内諸調』の「勇払郡神社員数書上」によれば、


勇払郡会所元

一、辨天社 梁間四間 棚間五間 壱棟

外ニ末社 弐棟

同断

一、竜神社 梁間弐間 桁間弐間半 壱棟

外ニ末社 壱棟

(以下略)


と記されており、さらに明治五年の『勇払・千歳両郡引継書類』の中では


勇払郡神社書上

会所元

一、辨天社 梁間四間 桁数五間 壱棟

外二末社 同間六尺 同間九尺 弐棟

会所元

一、龍神社 〃二間 〃二間半 壱棟

外二末社 〃六尺 〃九尺 壱棟

会所元

一、大黒天 〃六尺 〃五尺 壱棟

(以下略)


と記されている。すなわち明治四年には大小合わせ五つの堂社があったが、このうち弁天社と竜神社が比較的に規模の大きい社殿であり、明治五年の記録ではこれに大黒天が加わったことになる。すなわち明治五年の堂社の主たるものは、弁天社、竜神社、大黒天の三祠堂ということになり、これは前掲の「明治初年の勇払村の図面」に画かれた堂社の分布と、ほぼ一致していることが知れる。また末社として略記された小祠堂とは、稲荷社、不動堂(妙見堂)で、これらは以前からあった祠堂であるが、残りの一社については不明である。これらの関係を表示してみると、上記の表のようになる。

さらに鎮守社と記された祠堂が、竜神社であったと思われる証拠として、現在、恵比寿神社の奉納品となっている石燈篭一対および石造円形手水鉢がある。この二つの石製の奉納品は、元来、国道のそばに鎮座していた蛭子神社の境内に建立されていたもので、昭和三一年九月、神社の奉還に伴って現在地に移したものと言われている。したがって、この二つの奉納品は、おそらく明治の初年ごころは竜神社の境内に存在していたもので、元来は竜神社の奉納品とみられる。

奉納品には次のように刻書されている。


(石燈篭一対)

文久四甲子月日

願主 請負人 山田文右衛門

支配人 山田仁右衛門

通詞 喜兵衛

帳役 和兵衛

(石造円形手水鉢)

文久四甲子年正月吉日

願主 請負人 山田文右衛門

支配人 山田仁右衛門


文右衛門とは第十六代文右衛門清富で、ユウフツ場所請負人であり、仁右衛門は第十四代文右衛門有智の末弟にあたり、山田家一族の一人として場所の支配、経営にあたっていた。

このように二つの奉納品が、竜神社に対する奉納物であり、しかも場所請負人山田文右衛門等によって奉納されたということは、竜神社が山田家と深いかかわりを有していたものと思われる。近世における蝦夷地の祠堂の多くが、場所請負商人の勧請によって造立された経過からみても、おそらく山田家がユウフツ場所請負人となった文政年間を期にここに竜神社を建て、自らの守護神を祭って場所の繁栄、安全を祈念したのではなかろうか。そうすれば、松浦武四郎が弘化二年、この地を訪れて、これを「鎮守社」と記した意味が理解されるのである。なお文久四年(一八六四)正月を期して、これら石製の灯篭や手水鉢を奉納したということは、何らかの理由があったに相違ないが、これを詳らかにすることはできない。しかし、現在勇払にある「蝦夷地開拓移住隊士の墓」に残された墓碑の中に、文久三年(一八六三)死亡したものが四基あり、このうち山田家の番人、徳兵衛、鉄五郎、林吉、興市郎、吉松、友吉の六名の合同墓碑一基を山田仁右衛門が建てている。この四基の死亡者は、文久二年五月より全国的に流行し、翌三年には蝦夷地に大流行した痳疹によるものといわれている。したがって、これらの災害を除き無病息災を祈願すべき理由が、当時の場所請負関係者として必要な措置であったと思われるから、文久四年正月の奉納品は、前年の痳疹の流行と大いにかかわりのあったものと推測される。

また勇払の鎮守社といわれた竜神社の祭神等についても、現在のところ詳細は明らかではない。『東蝦夷日誌』によれば、蝦夷地において竜神を祭った記録としては山越領ユウラップ(八雲)、白老領ヲモツナイ、島古巻領ショモシュツ、同オピラシュマ等で、その数は余り多くはない。しかし各地にかかる竜神の祠堂が分布していることは龍蛇信仰が仏教信仰の八大竜王と結びつき、漁民や漁場の人々に受容されて漁業神として崇められたものであろう。松浦武四郎が『東蝦夷日誌』に記したように、千歳の弁天社に八大竜王が合祀されていることからも、こっらの事情を伺うことができよう。勇払に会った竜神社の御神体については『苫小牧町史』に「神体ハ山田文右衛門ノ身内ノモノ千歳神社に納メタリト云フ」。とあるが、これを示す確実な資料は見当らず、むしろ現在も勇払の恵比寿神社には「八大竜王」が合祀されているといわれる。恵比寿神社の前身蛭子神社はかつて竜神社と称せられていたことからみても、竜神社は八大竜王を祭神として祭っていたことが推定される。

ところが明治元年三月、政府は「祭政一致之御制度」の回復を明示、新道を確立するため神仏判然礼を布告して、神仏混淆の禁止を命じた。しかし北海道はこれが徹底には、かなりの年月を要し、当地方がようやく実施に移されたのは明治六、七年ごろで、従来までの弁天社をはじめ、各祠堂はそれぞれ廃止され、そして新しい社格による神社の創設をみるに至った。すなわち苫小牧は、明治七年の開拓史による神社改正調査によれば、つぎのようになっている。


胆振国第二区郷社

樽前神社 式外 勇払郡苫細村鎮座

氏子 二十四戸 祠官 榊永直

胆振国第二区村社

事代主社 式外 勇払郡勇払村鎮座

氏子 三戸 祠掌 無之

(「目でみる苫小牧の百年」昭和四十八年 苫小牧市)


とあって、明治七年六月、勇払には事代主社が創立され、さらに同八年五月の勇払など六郡の社寺所有地調査が行われ、同年八月の記録にはつぎのように記されて、郷村社の社格の決定をみた。

すなわち事代主社とは恵比寿社であり、これが蛭子神社と呼ばれ、後に恵比寿神社となったのである。

したがって明治五年の記録にあった弁天社、竜神社、大黒天など五つの祠堂は、ことごとく廃止され、神仏分離の命にしたがって、新たに事代主神とする新しい神社が創設されたのであった。

ではかつての弁天社、竜神社など六つの祠堂の祭神=神体は、どのようになったのであろうか。これらのうち不動堂(妙見堂)だけは残されて現存する勇武津不動(波切り不動)となったが、その他の祠堂については、詳しい記録はない。しかし現在、勇払の恵比寿神社に奉祀されている祭神は、明治八年の記録に残されたにもかかわらず、三柱の祭神が合祀されている。すなわち同神社には事代主神、市杵島姫神、八大竜王の三祭神が祭られているのである。これらの祭神は、明治七年の事代主社の創設によって、唐突として合祀されてのではなく、この背景には長い期間にわたって民間に信仰された歴史的な素地があった。

すなわち従前の小祠堂に祭られ崇められた、それぞれの祭神と深いかかわりがあったのである。まず八大竜王は、前述のとおり龍神社に祭られた祭神と推定されるものであり、市杵島姫神は


「市寸嶋姫命とも記す。田心姫命、湍津姫命と共に、宋像三女神の一つで、天照大神が素戔嗚尊と誓約した時に生まれた神。元官幣大社宋像神社中津宮の祭神である。神仏習合の結果、水の女神であるため弁財天につくられた」。

(『日本宗教辞典』昭和三十二年九月)


といわれる神で、神仏習合の時代には弁財天にあてられたというから、かつての勇武津弁天社の祭神であった弁財天に因って、市杵島姫神を合祀するに至ったものである。また事代主神は恵比寿(えびす)と関係のある神であるといわれ、「えびす」は


「恵比寿。夷・恵比寿とも書く。七福神の一。各地の神社に祀られる恵比寿とも深くかかわる。(中略)事代主命、恵比寿命とする両説があって定かではない。招福の神として漁村、農村、商家に多く祀られる。(中略)近世以降に七福神の一つとして、また大黒とし併祀して民間に受容された」。

(安津素彦他『神道辞典』昭和四十三年八月)


といい、えびすは大黒と併祀されて信仰されたといわれるから、勇払にあった大黒天の社も「えびす」を併祀していたものと推定され、これが後の蛭子神社に引き継がれたものであろう。以上の関係を図示してみると、次のようになる。



このように幕藩時代の末期から明治の初頭にかけて、勇払に存在した小祠堂のうち、少なくとも弁天社、竜神社、大黒天の三社が統合されて蛭子神社が形成されたわけで、民間信仰の伝統と根強さを知ることができる。

苫小牧市編「苫小牧市史 上巻」1975 苫小牧市
参考資料・情報など
苫小牧市史 上巻
苫小牧市編「苫小牧市史 上巻」1975 苫小牧市
現地確認状況
未確認
その他
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更新履歴
2017/02/02 記載
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