稚内 竜神島(りゅうじんじま)
地名研究家の山田秀三は、「チシヤ」について「高い独立岩のある辺の海岸のこと」を表すアイヌ語地名であるとし、「南の方から来ると竜神島がきわ立って見える」ことから「少し大きいがそれをチシと呼んだのかもしれない」と述べている
竜神島 (北海道) - Wikipedia
2022/9/14 記載
浜頓別を過ぎて、猿払を通過して稚内に向けて車を走らせる。クッチャロ湖、ポン沼、モケウニ沼、瓢箪沼、カムイト沼。心を惹かれる湖沼が車窓に、カーナビの画面に次々と現れては通り過ぎてゆく。車の速度で物事が通り過ぎていく。認識はその速度に応じて景色を保管して展開してゆく。次の景色に重ねられながら尾を引きながらやがては薄れてゆく景色たち。
海岸林造成は自然と人とのわかりやすい境界のようであった。風景とは人と自然との接点であるとの思いが聞こえてくるようだった。長時間自動車を走らせていると電波が乱れることが少なくないFMラジオよりも、スマートフォンのラジオアプリやpodcastで音楽などを聞く方が鮮明に聞こえる。その場所とその時に聞こえた音の情報が結びつく。嗅覚があまり良くない自分の場合、場所の思い出は、見えるもの、音、歩いた地形で覚えていることが多い。その時々の認識をベースに視界が変化する。同じ場所でも考えていること、見ようとするもので見え方が大きく異なる。
次の目的地、稚内の竜神島が近づいてきた。残り2キロの地点で目視で島が確認できた。反対車線にUターンして、高台の上から写真を数枚撮影した。2018年に来たときからしばらく時間が経っていたが、その姿は変わらないように見えた。当時と同じく日差しがきつかった。前回は島のディテールばかり気にしていたが、今回は島を中心とした地形に目がいった。海の奥、遠くに樺太が見える。
数枚写真を撮って、また車を走らせる。島のすぐ脇の砂利道をゆっくりと登って高台に行ってみる。期待していたのは島を上から俯瞰する景色だった。意外なことに高台は一面牧草畑が広がっていた。牧草をロール状にした、北海道というイメージに符合するような景色が広がっていて壮観だった。目的の竜神島は見えなかったので、坂を下って島のまわりで撮影できる場所を探して、幾枚かカメラに収めることができた。三脚を立ててゆっくりとフィルムを消費して撮影を進める。儀式のようにゆっくりと。レンスフードを忘れてしまったので、レンズの角度次第では光を掌で遮りながら撮影を続けた。名前がつけられた場所と名前のない場所の違いはなんだろうか。民話や伝承の残された場所は目印になり意識がそこに向かいやすい。景色を識別するのには何かの理由が必要である。それが偶然であっても、何かの理由がそこには存在する。感覚という曖昧模糊なものではなく、何かの道標によって範囲を狭めることによってある程度明確になった論理空間における、曖昧な選択としての撮影行為。風景は言葉であり、言葉は認識である。私は風景を言葉にするとき、風景になるのかもしれない。