水田は水不足で、ひび割れをおこし稲は黄色く立ち枯れの状況となり、万策つきた農家の人々は、然別湖に「雨乞い祈願」に出掛けることになった。上然 別の「諸般記載簿」には雨乞いをした記録が残されている。
その概略を述べると次の通り、
「大正14年7月7日、神社で雨乞い祈願。7月15日、然別湖に雨乞い祈願に出発、参会者下記の22名(氏名が記載されているが 省略)7月25日、沼の雨乞いお礼施行。7月31日、再び秋葉神社で雨乞いを実施した、午前6時に部落民は総出であった、青年達は木材を切りそれを割って 薪を作り、境内に山積みにして篝火を焚き、他の者は空罐、□(樽の旧字)を叩きながら、一心に雨乞い祈願を徹夜で続け、翌朝6時に解散した。8月9日、雨 乞いお礼部落全員参集」
と記され、いかに旱魃被害と農家の苦悩が大きかったかを物語っている。
また、この時の状況について昭和39年刊行の「西士狩史」によると、
「大正十四年の旱魃の年の八月二日、一行五十二名が雨乞いのため然別湖の弁天島に到着、龍神宮に参拝、持参の□(樽の旧字)に湖 水を貰い、□(樽の旧字)を通し二人づつ交替で持ち帰り、西士狩神社で一週間のあいだ、各区当番制で祈願をこめたところ見事に願いが叶えられ降雨があっ た。そこでこんどは、その水を然別湖にお返ししなければと、一週間目の八月九日、坂本浅吉を班長とする四人の者が雨水を無事弁天宮にお返しし、その夜は湖 畔旅館で一泊、翌十日無事帰村、酒二斗、みがき鰊一○把、糯米一俵を赤飯として参拝者全員に配って喜び合った」
と書かれている。
鹿追町史 農業