虫の知らせ

#004 / 小樽市 赤岩山 白龍神社

明治の初め修験僧が洞窟に篭って修行した際に、天に昇る白龍を見た伝説に由来する神社。

住所
小樽市 祝津4丁目
緯度、経度
43.236114, 140.994062
※あくまで目安であり正確な情報ではない場合がありますのでご注意ください
由来

小樽が近くなると和人伝説の色が濃くなってくる。そればかりでなく時代が明治にまで近づいてくる。小樽の高島岬の赤岩に白竜がすむという言い伝えがあったが、北海道開拓の使命をおびた、時の開拓次官黒田清隆は、開拓のはじまりは迷信の打破からと、乗船の玄武丸から白竜のすむという赤岩をめがけて大砲を撃ちかけた。砲弾は赤岩に当たらず祝津の浜の漁家の娘に当たって、黒田次官はそのため罰金を取られたというが、もちろん記録には残っていない。

この白竜のすんでいるという洞窟は白竜殿と呼ばれ、ここで真言宗の行者が弘法大使の像を安置して行を積んでいるのを、漁夫の万助という者がさぐりに入って、白竜に飛ばされて気絶し、それから行者に心服したという。また近くのオタモイの地蔵さんや祝津の竜泉寺の地蔵さんは、乳の少ない人たちの信仰を集めている。

更科源蔵・安藤美紀夫「17 北海道の伝説」1977 角川書店
由来2


北海道庁編「北海道の口碑伝説」1940 日本教育出版社
由来3

赤岩洞窟の行者 -小樽-


小樽・祝津の青山漁場で一番の力持ちは万助でした。万助は足ごしらえもしっかりと、腰にはマキリ(小刀)と縄をくくりつけ、ものすごい暴風雨の中を何を思ったのか、ただ一人「赤岩」の頂上へ登って行くのでした。万助が登り始めると風雨はますます荒れ狂い、岩を登る万助は、まりのように宙を舞い、大きな岩にたたきつけられるのでした。しかし、さすが万助は無事頂上までたどりつくことができました。

その頂上にある洞窟を万助はめざしていたのでした。洞窟からは暴風雨のせいか、奇怪な叫びらしきものが聞こえてくるのでした。まるで、龍の鼓動にも似た響きでした。さすがの万助も、生きた心地もなく、あわ喰って洞窟を出た万助の耳に聞こえてきたのは、澄みきった手振りの鈴の音であった。思わずぬれねずみの万助には冷たいものが背中に走るのでした。

鈴の音はたしかに、頂上の洞窟から聞こえてくるのでした。万助は勇気をふるい起こして、立ち上がり、また洞窟の中へ入るのでした。

洞窟へ顔を出したその瞬間、真暗な洞窟の奥から鈴の音はさらに力強く聞こえ、暗やみながら、はっきりと神にも似た美しい白衣の行者の姿を発見しました。万助はさらに両足に力をこめて洞窟の中へ入ろうとしました。

その瞬間、岩もくだけんばかりの地鳴りとものすごいいなびかりが起こりました。洞窟は真昼のように輝き、見る間に、突然、白龍が現れてきました。炎のようにランランと両眼を燃やし、ムチのようなひげが万助をおそうのでした。

その後、万助はどこをどう逃げ帰って来たのかわからず、その夜の明け方近く、ほとんど息もなく青山漁場に横たわっていました。全身血だるま、一糸まとわずのありさまでした。いろいろと手当てをして、やっとのことで息を吹き返した万助は、恐怖にふるえながら、赤岩洞窟の出来事を語るのでした。

「たしかに、あの白衣の行者は高尾了範じゃった。小樽の北の廓に通うどころか、この風雨の恐ろしい夜も、ああして行を修めてござったのだ。ああもったいない了範さま、赤沼篭りといつわり北廊通いに浮き身をやつす生ぐさ坊主じゃなどと口ぎたなくののしったりして。よくも口が曲がらなかったものだ。そのうえ、お篭りのようすを確かめようと、浄い尊い仏の洞をけがしたのじゃ。ああ、白龍のたたりが恐ろしい。許してくだされ、了範さまー。」

真言宗の若い僧高尾了範が、赤岩頂上の洞窟で修行を積んだのは、明治二十二年のことです。その満願三七二一の日に、夢に、大日如来の尊像があらわれたということです。了範がノミ一挺で彫りきざんだ弘法大師の木像は、今も赤岩神社の奥殿に安置されています。また、彼が篭った洞窟は今は「縁結びの岩」とよばれ、人々に信仰されています。

(北海道の口碑伝説)

北海道口承文芸研究会編「北海道昔ばなし 道央編」1989 中西出版
由来4

赤岩の白龍伝説


祝津から赤岩への「自然探勝道路」を登っていくと木の鳥居があり、そこから急ながけを海にさがっていくと、白竜大神の洞くつへの道になります。

とちゅうからロープをつたわったり、鉄のはしごを使ったりして、やっと洞くつにつくことができます。

洞くつは二メートルに四メートルほどの広さがあり、正面の穴から海を見ることができます。しかし、すぐ下はおそろしいがけになっています。

ここに明治二十一年(一八八八)ごろ和歌山の高野山から了範がきて、二十一日間、ごはんを食べずにおいのりをしました。そのおいのりがあけた日に、白い龍が海にあらわれ波をけって空にあがり白雲に消えたといいます。

いまでも高島や赤岩の漁師さんたちは、ここにきて大漁と海の安全を願っているといいます。

小樽郷土史研究会編集「おたる歴史ものがたり」1989 北海道教育社
由来5

玄武丸の大砲事件


明治九年七月三十日午前十一時ごろのことでした。祝津の漁師斉藤清之助さんの小屋に大砲のたまがおち、そのはへんがとびちり、家にいた十八歳の娘さんの両足にあたりました。

その大砲は、東京から小樽港に向かっていた、開拓史の御用船「玄武丸」から発しゃされたというので、大さわぎになりました。

しかもその船には「開拓史長官黒田清隆」がのっていたのです。舟がつくと長官は、役人と医者をさしむけたのですが、出血が多くその日のうちに娘さんはなくなりました。

ではどうして祝津に大砲をうったのだろうか、ミステリーな話です。

一つは、赤岩の洞くつにいるという白龍を退治するため、岩場にむけて打ったのがそれて人家に落ちた。

二つめは、この船には長官のほか、アメリカから札幌農学校をつくるために招かれたクラーク博士と学生たちもたくさんのっていたが、黒田長官と博士との間で、教育のしかたについて意見があわず、いらだって大砲をうつことを命じた。

どれが本当の話かわは今でもなぞのままです。長官はばっ金として船長に百円(そのころとしては大金)、船のかんとくには四十円をいいわたしました。

斉藤清之助さんは、大砲事件のあとしまつのつけ方に、大へんおこり、「人の命が金でかえるのなら、オレだって黒田の命ぐらいかってやるぞ」と言ったそうです。

小樽郷土史研究会編集「おたる歴史ものがたり」1989 北海道教育社
参考資料・情報など
17 北海道の伝説
更科源蔵・安藤美紀夫「17 北海道の伝説」1977 角川書店
北海道の口碑伝説
北海道庁編「北海道の口碑伝説」1940 日本教育出版社
北海道昔ばなし 道央編
北海道口承文芸研究会編「北海道昔ばなし 道央編」1989 中西出版
稚内市史
稚内市史編纂室「稚内市史」1968 稚内市
現地確認状況
2017/6/11確認済み
その他

訪問した日は天気予報に反して小樽に入ると雨脚は強まる一方だった。訪問順を変更して先に札幌から小樽を通り過ぎて余市へ向かい、小樽へ引き返した。 雨は降りやまないどころか一層勢いをましてゆくようだったが、とりあえず行くだけ行ってみようと祝津へと車を走らせた。 岬に立って良景に見とれているうちに雲が風に運ばれて空が見えてきた。 悪路が予想はされたが天の助けとばかりに準備を整えて自然歩道を登って先を急いだ。濡れた道路わきの草ですぐに足元は水浸しになったが構わず進むと、 分かれ道の右手にある鳥居が目について、分岐を海側に下る進路を取った。ぬかるんだ歩道はグリップがきかずに横滑りで下の方に引っ張られる。斜面に身体が流れないように脇の根をつかみながら両手を使ってなんとか先に進む。

急にぽっかり視界が開けて、そびえたつ岩に挟まれた風の通り抜ける場所に出た。見上げると岩場の上から垂れ下がったロープが風に揺られており、いくつかハーケンがささっていることが分かる。 後から知ったがここの岩場は岩登りのトレーニング場所でもあるというが、この場所にはふさわしくないと強く感じ不快に思えた。 この日の悪天候で当然人影は皆無な中、踏みあとを頼りにルートを登ってゆく。 機材の入ったザックが風に煽られて体が持っていかれることに注意しながら風景の中を進む。 一部は人の手が加わっているのだろうか、岩場の空洞が聖域として活用されており石造などが安置されており、なんともいえない雰囲気が充満している。 かつて阿武隈川で見た石仏と重なって見えた。 さらに上にゆくと洞窟に白龍様、龍神様なども祀られており、梯子をくぐって胎内めぐりをして上へと登ってゆくことができる。 この日はとにかく滑ったり風に煽られたりで気苦労が多かったが、なぜここに信仰や伝説が芽生え語り継がれているのか、体験することができた気がする。

関連:#092 / 小樽 大蛇を殺した娘

更新履歴
2016/10/01 記載
2016/12/01 由来4、5追加
2017/08/03 その他記載
2017/06/11
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